ろっぴーのブログ

大好きな方々を愛でたい

2021「ドン・ジュアン」感想

生田先生の話

本題に入る前に、生田先生の話をしたいと思います。
というのも、私史上最大級に先生への信頼と好き!が高まっているのですよ今。
だいきほファンはデフォルトで先生への好感度が高めだと思うんですが(私の体感)、この作品を見てそれがますます揺るぎないものになった感じ。
そもそも、どうして演出の先生方の中でも生田先生が特別なのかというと、単にお二人の大劇場お披露目&サヨナラ公演を担当したというだけでなく、いろいろな要素がオタクの癖に突き刺さるからですよね。
ひかりふるにおけるマクシムの描き方やマリーアンヌとの関係、大世界に代表される ドハマりせずにはいられないシルクロードの場面構成。
我々と同じような目線でだいきほを見ているからこそできる演出、ということを強く感じるうえに、お二人について熱く語る様子とか公演パンフなどで寄せる言葉をみると、実際に先生自身から“同類”感が思いっきり放出されてる(笑)

ここまで だいきほと一括りにしていたけど、特に望海さんへの愛が重いというのがファンの共通理解だと思います。
望海さんと先生は入団同期ですし、花組時代から関わりが深いですからね。
だからこそ、LOCK ON!やシルクロードのStage Side Watchで真彩ちゃんにも並々ならぬ思い入れがおありなんだなとわかったのが嬉しかった。


真彩ちゃんのドンジュアン(これ以降は、便宜上 中黒を省略します)出演が発表されたとき、ファンの皆さんが最初に感じたのってどういう思いだったんでしょう?
真彩ちゃん寄りのだいきほファンである私にとって、正直なところ、この作品は良くも悪くも近寄りがたい聖域という印象でした。
もちろん、大好きな作品ですし望海さんのドンジュアンも大好きです。ただ、真彩ちゃんを軸にして語るなら、お二人がトップコンビになる前に望海さんがとてつもないパフォーマンスを見せ、ご本人にもファンにも強烈な印象が残っている作品だからこそ、その輪の中に真彩ちゃんが入ることがイメージできなかったのです。
マリア役だったみちるちゃんが雪組に在籍していることを差し引いても、デュエットを聴いてみたいなと興味本位で思ったことはあっても、だいきほでドンジュアンを観たい!という願望は私にはありませんでしたし、サヨナラショーで真彩ちゃんが悪の華~Aimerの場面に出なかったこともむしろ自然だと受け止めていました。

だいきほ退団後はもちろん、この作品と再び縁があるかもしれないなんて全く想像しておらず。
真彩ちゃんがマリア役を務めるというのは、まさに青天の霹靂でした。
退団後初舞台。がっつり恋愛もので、初めて相手役が男性になる。しかも、そのお相手はとってもたくさんのファンをもつジャニーズの方。その作品がよりによってドンジュアンとは、という怯みみたいなものを個人的には感じていました。
不安がたくさんある中で、唯一の安心材料だったのが生田先生が演出を担当するということ。
宝塚の先生方の中でもとりわけ真彩ちゃんのことをよくご存知で、その魅力や実力を大いに引き出してくださった生田先生なら、真彩ちゃんのプレッシャーも和らげてくださるだろうし、真彩ちゃんファンにとってもだいきほファンにとっても安心して観られる作品に仕上げてくださるだろう、と縋るような思いでした。
Domaniさんの対談記事から、私が想像していた以上にお二人の関係が深くて強いものだったことがわかって嬉しい驚きでした。)

先生にキャスティングの決定権があるわけではないでしょうから結果論でしかないのですが、今になって思うと、先生はかなりの長期間かけて ご自身が好きな役者たちをこの作品に引っ張ってきたことになりますね。
作品(特に海外ミュージカル)は2~3年前から企画が動き始めるという通説から考えると、望海さんの主演はおそらく今から8年ほど前に決定。
前回の藤ヶ谷さん主演の際も、2年後の今年に再演することを織り込み済で版権の手続など行っていたと思われます。
そして、2019年当時といえばだいきほの退団時期は当然未定でしたが、トップスター在任期間の通例からすれば2021年にはお二人が退団していることも見越されていたはず。
…と考えると、本当に長期的な計画によって望海さん、藤ヶ谷さん、真彩ちゃんという 先生が大きな愛と信頼を寄せるメンバーがこの作品に関わることが決まったのではないかと思ってしまいます。
「生徒」であるだいきほに対するものとはまた違うベクトルで、先生が藤ヶ谷さんのことをとってもお好きなのが今回よくわかりましたしね。
なんの根拠もない私の妄想ですが、こんな風に考えてしまうのは8割方先生のせいです(責任転嫁)
だって、改めてこれまでの生田先生語録を使って相関図を作ってみたらこんなことになってしまった…

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とにかく思いが重いんです、先生は!これからも存分にキャストや主題へのクソデカ感情を発揮して作品をつくり上げていただきたいです、それこそが先生にしかない魅力の一つだと感じているので。

さてさて、やっと公演の感想に入ります!
書こうと思ったらいくらでも書けてしまいそうなぐらいですが、
キャスト別感想→特に重要だと思う考察ポイント(雪組版との比較も含めて)
という順番で、最大限内容を厳選していこうと思います。

キャスト別感想

藤ヶ谷太輔さん

幸運なことに大阪前半から東京終盤まで複数回観劇することができた中で、一番変化や進化を感じたのが藤ヶ谷さんでした。

とはいえ、では序盤はクオリティーが低かったのかというとそんなことはありません。
望海さんのドンジュアンの幻影にとりつかれている私は、身も蓋もない言い方をすれば 真彩ちゃんのマリアが見られるなら他は満足できなくても目を瞑ろう…というとんでもなく何様なスタンスでMy初日を迎えたわけですが。
藤ヶ谷さんの第一声で大きく認識を改めさせられました。
舞台用の発声がきちんとできていたからです。
3階席にいた私にも全く問題なく届く声量、発している言葉も明瞭。
それはセリフだけでなく、歌い始めてからも変わりませんでした。

さらに畳みかけてきたのが、藤ヶ谷さんが歌う1曲目「俺の名は」最後のロングトーン
この音、男性にとってはかなり高くて難しいと思いますし、ここまで約15分セリフなしで舞台に立っていたドンジュアンが一発目に歌うという点でも緊張が大きいはず。
そんな鬼畜なロングトーンを、最後まできっちり伸ばせている!ということにびっくりでした。
きっちりというのは、芯がある声をキープできているということです。
時々あると思うんですよ、最後まで音程を保って伸ばし続ける技術がないからビブラートでなんとなくごまかしているケース。
これは一定の長さを伸ばしたうえで余裕をもってかけるビブラートとは別物だと思っています。
だから藤ヶ谷さんがそういう小手先テクニックを使わず、愚直といっていいぐらいに全身全霊でこの役に挑んでいることがこのロングトーンから伝わってきて、「ナメてました、ごめんなさい!」と内心反省しました。
と同時に、藤ヶ谷さんの歌に関しては「この曲歌えるの?」と構えながら観る必要は一切ないな、という信頼も抱きました。

一方、初めて観たときに惜しいな、もったいないなと思ったのは声色の使い分けや表情でのお芝居。
藤ヶ谷さんは やや高めで濁りがなくよく通る声をお持ちなので、Aimerとかマリアとのデュエットみたいなナンバーにはそれがすごく合うと思うんです。
端的にいえば、王子様役がしっくりくる声。
でも、この役はそういう場面だけではない、というかむしろ悪や憎悪や欲といった要素を思いっきり出さないといけない。
それを考えると、場面によってはもっとがなるようなドスをきかせたり、低めの発声にしたりしてくれたらなという物足りなさがありました(これは間違いなく望海さんの影響です笑)

そして、表情。
特に1幕に対する印象ですが、「悪徳の限りを尽くして生きた」に寄せた望海さんに対し、藤ヶ谷さんは「石のような冷たい心」に寄せたドンジュアン

マリアと出会ってから子どもみたいに純粋な表情になるのは同じですが、それまでの望海ドンジュアンにはずっと昏い欲の炎が燃えているけど、藤ヶ谷ドンジュアンは 女たちを弄びながらも自分の心の奥底には何も寄せつけない“無”のように感じます。
だからこそ、心を閉ざすような無表情のところと感情を表に出す場面とのバランスがとれたらもっと良くなるのでは、というのが初見の感想でした。

そして、上記のようなポイントが観劇を重ねるごとにどんどん進化していったわけです!
もちろん真彩ちゃん目当てで観てはいるのですが、その回でしか観られないお芝居という点では、藤ヶ谷さんは本当に毎回新しい発見を与えてくださいました。複数回観劇の醍醐味を味わうことができてものすごく楽しかった。
具体的にどう変わったのかというと…当初“無”だった1幕が人間味を増していった印象です。

望海さんのドンジュアンって、とにかく鬼畜。私は映像でしか観たことがないので多分に偏った印象かもしれませんが。
父親の亡骸を目の前にした騎士団長の娘にキスして、必死に男たちと絡み合うエルヴィラを嗤いながら酒を飲んで、高笑いのプロ(?)の真骨頂といわんばかりに 嘲るような笑い声を響かせる。
これは男役である望海さんだから成立したドンジュアン像であって、リアル男性がやったら 虚構の世界とはいえ、嫌悪感や拒否感が先にきてしまう観客が少なからずいるでしょう。
望海さんとは違う役づくりを追求した結果 藤ヶ谷さんがたどり着いたのが 無からのアプローチだと思うのですが、回を重ねるごとに感情や欲がどんどん表に出てきました。
きっと大阪初日の直後に観た人と今観る人とでは全く違う印象を受けると思います。

騎士団長との決闘に臨むときの酷薄な笑みと瞳の輝き、殺した後の嘲るような笑い、バカにしたようなエルヴィラへのあしらい方、縋ってくる女性への舌打ち。
父ドンルイに肩を抱いて諭されるときに見せるたじろぎ、家長である父の椅子を前にしてしばし躊躇いながらも腰を下ろす様子、「母上…」と呟く瞳に一瞬宿る純粋な光。
根底に冷たさを感じさせながらも繊細になっていく藤ヶ谷さんの表情、ものすごく観察し甲斐がありました。
表情だけでなくセリフ回しも自然さが増していって、特にマリアとの出会いの場面はやや単調になりがちだったのが 間のとり方や抑揚で感情の動きがより伝わってくるようになったなと感じます。
声での表現も同様で、欲や怒りをぶつけるような場面で声が低くなったり がなりが多く入ったりするようになったことで、それ以外の場面との差が際立つ結果に。

一方で、マリアに出会ってからの変化は公演序盤から素晴らしかったなという記憶が。
意識的なのか 感覚でお芝居して自然にそうなっているのかわかりませんが、ライトが瞳に入ってすごくキラキラして見えるんですよね。
死にゆく瞬間もそういう目をしているときがあって、すごく印象的でした。

そしてもう一つ、「お芝居の歌」としての表現について。
ミュージカルならではの魅力であり難しさでもあるのが、歌で演技するということではないでしょうか。
個人的に、 お芝居の歌って技術だけでは絶対に成立しないものだと思っていて。
いくら音程が正しくて声量があってテクニックを兼ね備えた歌い手であっても、役として歌えていない、つまり役としての感情より 中の人 本人が見えてしまう役者は、お金を払って観に行く気になれません。

この観点から、私は雪組版を初めて観たときから「嫉妬」がこの作品で一番の難曲だと感じています。
美しく歌いあげるナンバーではなく、感情を爆発させるように歌う曲。
ただ技術があるだけの人が歌っても全く意味がないでしょう。
歌とセリフの中間、というぐらい思いっきり感情をぶつけていた望海さんの印象が強烈で、このナンバーをどうこなすのかというのも 藤ヶ谷さんのドンジュアンを観るにあたって自分の中で意識していたポイントでした。
そして実際に聴いた印象はというと、望海さんver.に慣れた耳にも違和感がありませんでした。
もちろん望海さんの歌い方をコピーしているわけではなく、純粋に藤ヶ谷ドンジュアンの感情が突き刺さってくる感覚。
「俺、ちゃんと歌えてるだろ?」要素はおろか、「音程合わせなきゃ」という意識すらみえない お芝居の歌として申し分ないパフォーマンスでした。
このナンバーを聴いて、藤ヶ谷さんが演じるドンジュアンを観られてよかったと心から思いました。

開幕前の取材で藤ヶ谷さんご自身が「直前のセリフとの境目を自然に…」ということをおっしゃっていましたが、それも十二分にクリアなさっていました。
特にAimerで昂る心の声が歌になった感じ、すごく良かったなと思います。
「君の父上からの伝言」の「気安く触るなよ~」が楽譜通り!のテンポではなく、適度に間をとった自然な歌い方になっていったのも印象的でした。

さらにピンポイントで好きなところを挙げるなら、悪の華~Du Plaisirの一連の流れですね。
悪の華で昂った感情そのままに、本能と欲に任せてDu Plaisirになだれ込むドンジュアンと 理性をかなぐり捨てるように歌い舞う酒場の男女。
これぞドンジュアン!という感覚を一番強く味わえるので、望海ドンジュアンを手っ取り早く摂取したいなと思ったときいつも観る場面でもあります。
藤ヶ谷さんはまず、Du Plaisirのr音をはっきり発音しているのがすごく私の好み。
望海さんがDu Plaisir終盤、バラをマイクさながらに持って「Ah~」というオブリガートを感情のままに歌っている感じが大好きなんですが、藤ヶ谷さんもどんどん理性0に近づいていったなという印象。
観劇のたびにこの一連の場面で過去最高を更新してくださるので、毎回楽しみで仕方なかったです。
あと、藤ヶ谷さんとは関係ないけど雪組版も今回も「今夜は誰を選ぶのかしら?」で一列になってポーズを決めていく女性陣に順番にライトが当たる演出が狂おしいぐらい好き。
ここを観てるときの私の脳を分析したらドーパミンとか幸せホルモンとかドバドバ出てたと思う。ほんとに最高でした。

あと、最後にとってつけるような感じになってしまって恐縮なのですが、当たり前にお顔がいいですよね(笑)
登場の瞬間から普通にかっこいいので むしろいちいち「イケメン!」とか思わないのですが、2幕のデュエットで真彩ちゃんにオペラでロックオンしているとき、視界に藤ヶ谷さんが入ってくると「整ったお顔立ちだなあ、鼻高いなあ」としみじみ…(笑)

外野の立場から無責任に言わせていただくなら、藤ヶ谷さんはこれからも舞台に立つべき方だと思います。
個人的には、他のミュージカルならどんな役を演じられるのかすごく興味があります。
この難役を演じきった藤ヶ谷さんなら、たいていの作品に挑める力があるはず。
性を想起させることが不可避なストーリーでありながら、ご本人がもつ清潔感によって色気はあふれつつも生々しくなりすぎず、マリアとの場面では宝塚さながらの夢々しさまで感じさせる美しさで非現実に浸らせてくれた藤ヶ谷さんのポテンシャルと技術は天晴れでした。
生田先生以外の演出家との化学反応もぜひ見てみたいものです。

真彩希帆さん

真彩ちゃんに関しては思いが強すぎて(怖)、好き!かわいい!うまい!に尽きる感じがありますが。
とりあえず、退団から半年でよくここまで持ってきたなというのが真っ先に抱いた感想です。
娘役としての歌い方をあれだけ磨いてきたのに、ミュージカル仕様の発声にスムーズにシフトしているのが衝撃でした。
宝塚時代の曲と比べるとキーが低めなのも逆に良かったのでしょうか?
音楽の天使たるポテンシャルを見せつけられた感があります。

今回追加されたソロ「愛が、呪い」、私は黒いドレス姿で歌うというレポを大阪初日に読んで フランス版の「Les Anges」という曲かなと思っていたんです。
マリア、エルヴィラ、イザベルの三人がファルセットで歌う讃美歌のような曲ですが、編曲してマリアが一人で歌う演出にしたのかなと。
ところが実際の原曲は「Tristesa Andalucia」。もはや女声のナンバーじゃないっていう…
これは、私が生田先生をナメていたっていうことに尽きます。
だって、大劇場お披露目で葛藤と焦燥という伝説の神曲にして超絶難曲を歌わせて、サヨナラ公演では誰も予想していなかったであろうラップをやらせた先生ですもの。
いくら高音が続く聴きごたえのある曲であっても、真彩ちゃんが美しいファルセットを響かせることが聴く前からわかっちゃうようなナンバーを外部初舞台でやらせるわけがないと気づくべきでした。
この曲を聴いて、先生が真彩ちゃんに課したハードルだと感じると同時に、(特に初めて真彩ちゃんを見る)観客に対する「これが私のミューズです、ただ者じゃないでしょう」という先生のドヤ顔が目に浮かびました(笑)
でも私も同じ気持ち。毎回、「たとえ命が枯れても」の叫ぶような歌声に震えながら「私の音楽の天使、すごいでしょ!!」って誇らしくてたまらなかったです(私はただファンなだけで、自慢できるような立場では全くないんだけど)。

最後のこのソロに持ってかれちゃう感はありますが、「彼を愛している」も素晴らしいですね。
裸足で舞台のセンターに一人立って愛を歌いあげる真彩ちゃんの輝かしさ美しさといったら…心が浄化される歌声です。
低音でも、太いというより軽やかにささやいているような響きになるのはどういうテクニックなんでしょう?完全にプリンセスですよね。
どの曲でも語るように表情をつけて歌えるという「明らかに正しい技術、徹底した基礎によって裏付けられた表現力、芸術」は健在ですが、生田先生がおっしゃっていた「とても情報量の多い声の持ち主」をひときわ実感したのは、Changerの「咲き誇るバラのように 世界が愛に染まる」かな。
歌詞のとおり、周りに花が開くのが目に浮かぶようで鳥肌が立ちました。

お芝居も、宝塚時代の経験は伊達じゃないな、やっぱり地力があるよな~としみじみ。
トップコンビのように相手役さんとじっくりセッションして演技プランを立てていくお稽古をしたのかはわかりませんが、ドンジュアンとマリアの出会いの場面は一歩間違えたら「は?」ってなりそうなマリアのセリフを絶妙な匙加減でうまくやっていてすごいです。
タメや笑い方一つとっても、本当に絶妙。
さすが望海さんに鍛えられただけあります。

あと、忘れてはいけないのがビジュアルの完成度の高さ!
第一に衣装がどれも素敵。さすが有村先生です。
2幕は終盤の黒ドレス以外ずっとお腹が出ているデザインなので開幕当初はとにかくファンがざわついてましたが(笑)、退団して間もない今だからこそ、先生方が華奢できれいな体型を見てほしかったのかな。
シルクロード千夜一夜での衣装について真彩ちゃんがカフェブレで「(お腹)あんまり出てないんですけどね」と話していたのを聞いた生田先生が「じゃあもう一息いこう!」って考えた可能性もあり?(たぶん違う)
実際は骨格ナチュラルだとご本人がおっしゃっているけど、初見の方がウェーブ?って言うくらいほっそいですもんね…
2幕冒頭やカテコで着ているエメラルドグリーンのドレスは、アンサンブルさんが深い赤を基調とした衣装なので補色で目立ちます。しかも雪組カラー!先生の愛を感じる。
衣装だけでなく鬘とメイクも100点満点のかわいさ。鬘は宝塚時代と同じくご本人が考えたのかスタッフさんによるものなのかわかりませんが、よく似合っているし凝ったデザインで見とれてしまいます。
メイクは、間違いなく宝塚時代から磨かれた自己プロデュース力の成果。
どこから見ても、どの場面も本当にきれいでかわいい!!

あまり踊ってはいませんが、「何かが変わり始めている」でソロがあるのが嬉しい。
舞台を踏み鳴らすフラメンコの振り付けを華麗に踊っているのを見て、20世紀号のときにタップに苦手意識があるみたい、と望海さんにバラされていたのを懐かしく思い出しました。
望海さんの舞台を観たときもそうですけど、どこまでもだいきほの亡霊なんですよね…
でもそれとは関係なく、娘役でも望海さんの相手役でもない真彩ちゃんの魅力を今回堪能することができました。

平間壮一さん

平間さんは体幹だったりスタミナだったり、とにかくフィジカルのポテンシャルがすごい!
男性キャストの中ではひときわ細身で小柄にさえ見えるのに、とんでもない強靭さに驚かされました。
やはりハイライトは「マリア」かなと。
あれだけ殴ったり殴られたり、果ては転がりながら歌っても音程がブレない。
しかもこの場面の立ち回り、私の勘違いでなければ、毎回同じ動きではなく公演ごとにその場で生まれた流れで皆さん動いてますよね?
平間さんがやられっぱなしのときもあれば、周囲の男性を殴りまくってるときもあり…
技術や体力だけでなく、カンパニー全体にお互いへの信頼がなければ成立しないと思います。

ドンジュアンとの決闘も。
歌いまくった後に激しい殺陣をこなしてまたソロを歌う藤ヶ谷さんも相当ですが、やられる立場の平間さんは倒れたりうめいたり、また違ったキツさがあるはず。
1階席前方で観ていると思わず息を呑んでしまうぐらい、臨場感と迫力溢れる場面でした。

雪組版でマリアに彫刻家を辞めるよう迫るモラハラ野郎だったラファエルが 2021版では(仕事に打ち込む彼女の様子が不本意だという素振りは見せつつも)そういったことをセリフとしてはっきり口にしていない点は、最大の改変の一つ。
ラファエルが結婚すると宣言した後、マリアは「戦場なのよ、何があるかわからないわ」と水を差すようなことを言ったり、仲間たちと盛り上がるのをよそに 近くにあった石を抱いて作品のアイデアを膨らませるような素振りを見せたりします。
自分より仕事に夢中なんじゃないかと思わせるような彼女の態度を見ても平間ラファエルが自分の感情を抑えている様子が印象的でした。
そういう彼の優しさ、穏やかさのようなものが現れていたのが戦場のシーン。
ひとこラファエルは殺された味方を見て狂気じみた様子で敵に向かっていくのに対し、平間ラファエルは死んでいく仲間たちに呆然としている。
そんな人物像だからこそ、マリアとドンジュアンの関係を知った後の怒りや嫉妬の爆発が強烈に印象づけられます。
また、ドンジュアンやマリアよりも私たちに近い“普通”の人だと感じさせられるだけに、「人は、何故」で歌う「一人の女を愛しただけなのに」の悲痛さ、切なさも 雪組版より胸に迫ってくる感じがありました。

あからさまに結婚に乗り気でないマリアの態度に、ドンジュアンと愛し合う彼女を見る前から 本当に自分を愛しているのか疑ったり不安に感じたりする気持ちがラファエルにはあったはず。
決闘に向かう表情も、ドンジュアンが嫉妬と怒りに駆られているのに対して ラファエルからは悲壮という印象を強く受けます。
どう転んでも、マリアと自分が再び結ばれることはない。
自分に勝ち目がないこともわかっていたでしょう。
「彼女と生きることだけが俺の望みだった」のに叶わないなら、せめて自分の姿をマリアの目に焼きつけ、決闘を見守る人々に 彼女を愛した事実の証人になってほしかったのかなと想像します。
雪組版ではラファエルのモラハラ&性別役割分業的発言が気分悪くて(生田先生にもひとこちゃんにも当然非はありません)、ドンジュアンになくてラファエルにあるものが愛っていうのが納得できなかったんですよね。
ラファエルだってマリアの感情は無視で自分の所有物にしたいだけじゃん!?と思ってしまって(劇場で観ていたら違う印象だったかもしれませんが)
でも、マリアがマッチングする相手がラファエルではなかっただけで 彼の愛は確かなものだったと平間さんのラファエルからは感じることができて、ラストの展開の見え方が大きく変わりました。

上口耕平さん

ドンジュアンや酒場に集う男女の中に一人立っていても飲み込まれない佇まい、あのTHE・貴族な扮装が似合う端正な雰囲気
上口さんのカルロを象徴しているなと感じるのが、ドンルイにお辞儀する所作のエレガントな美しさ!
このお辞儀は1幕でやっているのがわかりやすいですが(カルロを皮肉るように、ドンジュアンはふざけた仕草でドンルイにお辞儀して去るんですよね)、2幕の「誰に対しても情けはかけない」でドンルイが登場したときもさりげなくやっていて、ひそかな見どころです。

そのうえさらに、安定感のあるお芝居と歌声。
私はDVD収録があった10/25の公演を観劇したのですが、緊張感からか いつもはないようなミスがちょこちょこ見受けられるなか、揺るぎない上口さんのカルロの存在が舞台全体の集中力を引き上げているのを感じました。

上口さんのカルロには咲ちゃんと比べて陰の魅力を色濃く感じますし、咲ちゃんカルロってドンジュアン(というより望海さん?)への愛がめちゃめちゃ重かったんだなあ…って思います。
ドンジュアンに捨てられたエルヴィラを案じるような言動はもちろんありますが、結局は一番にドンジュアンを思って案じているのが咲ちゃんのカルロ。
それに対して、上口さんは「憎んでいないといえば嘘になる ただそれ以上に愛してもいた」という歌詞がしっくりくる、まさに愛憎入り乱れる思いをドンジュアンに抱いている印象(咲ちゃんカルロは、憎しみなんてせいぜい5%ぐらいしかなさそう。ひたすらに圧倒的愛)。

この対比が明確に表れているのが、「行かないで」の前にイザベルがカルロにかけるセリフ。
雪組版は「あなたのため?彼女のため?…それとも彼のため?」
2021版は「あなたのため?彼のため?…それとも彼女のため?」
イザベルがこの後のセリフで言うように、最後にいくほど核心をついているわけですから、カルロにとっての優先順位は
雪組版:ドンジュアン>エルヴィラ
2021版:エルヴィラ>ドンジュアン
になるということですよね。
悪の華の振付といい、雪組版でのドンジュアンとカルロの関係性は宝塚だからなのか のぞさきだからなのか生田先生にじっくり話を聞きたいところです、ほんとに。
藤ヶ谷さんと上口さんの距離感がたぶん“正常”ですもんね…

上記の「陰の魅力」とはどういうことかというと、上口さんのカルロにはドンジュアンへの屈折した愛を感じるんです。
例えば、アンダルシアの美女に渡そうとしたバラを受け取ってもらえないドンジュアンを嗤ったり。
はたまた、Du Plaisirで快楽と欲に溺れるドンジュアンを嗤ったり。
ドンジュアンの悪徳さゆえに純粋に彼を愛するだけではいられないのが咲ちゃんカルロ、反対に彼を憎みたい気持ちがあっても憎みきれないのが上口カルロなのかなと。

天翔愛さん

天翔さんの声、「純粋無垢なためにドンジュアンに騙された良いお家柄の娘」という設定がぴったりハマります。
くらっちのエルヴィラは 理知的で誇り高い女性が初めて味わわされた屈辱によって理性を失ったゆえの狂気、天翔さんのエルヴィラは 蝶よ花よと育てられた箱入り娘が初めて思い通りにならないことを経験した衝撃ゆえの狂気。
作品に登場する他の女性たちと比べると幼さを強く感じるからこそ、「望むならば」や「ドン・ルイとエルヴィラの諍い」の 激情に身を任せて後先考えず突っ走ってしまう感じがリアルだなと。

さりげないシーンだけどこの“お嬢様感”を強く印象づけられるのが、カルロに「お父様とお話させてください」という場面。
思いっきり顔を寄せていて、距離感の近さにエッてなるんですよね。
良く言えば無垢、悪く言えばナチュラルに常識外れなところを出しているのかなと感じました。

技術的には、歌でもセリフでも感情に合わせて声色をシフトさせながら健闘していたなという印象。
特に公演期間序盤はやや音程が甘いなと思ったナンバーもありますが、その必死さがドンジュアンやドンルイに思いをぶつけるエルヴィラとリンクしていたせいか、個人的には大きなストレスを感じるほどではありませんでしたし東京に来てからはぐっとクオリティーが上がった印象です。
今の年齢で王道ヒロインではないこういう役柄を演じられたことは、今後のキャリアにきっとつながるのではないでしょうか。

吉野圭吾さん

この役を他の人がやるのは想像できない!というぐらいとにかく凄かったです。
セリフや歌なしでただ立っていたり踊っていたりするだけでも視線が引き寄せられてしまう。
決してメイクのせいだけじゃない圧倒的な存在感
吉野さんじゃなかったらこの世界観は成り立たないのではないでしょうか…

亡霊になった後のインパクトが強すぎますが、生前の場面でも特に印象的なところがあります。
ドンジュアンに目を斬りつけられて一瞬勢いを失ったのが、彼の腕の中にいる(かばっているわけではなくてむしろ盾にしているような感じですが)娘を見て、カッとなって再び向かっていくように見える。
詳しくは後述しますが、私は騎士団長と亡霊さんは全く別の人格(?)と捉えているので、わずかな時間で掛け声以外のセリフもない中、団長の人物像を想像させるような細かいお芝居がさすがだなと。

原作にあたるモリエールの戯曲では、ドンジュアンが死ぬラストシーンで騎士団長の亡霊が「時」(鎌を持った神だそう)の姿をしていると描写されています。
このミュージカルではずっと石像がモチーフのビジュアルですが、原作と同様に亡霊が時間を操っているんじゃないかと思わせられる場面が。
一番強く感じるのは、Aimerと戦場のシーンの間です。
実際の時系列はわかりませんが、亡霊さんが踏むタップが徐々に速くなっていくのがまさに時の経過を暗示しているようだなと。

歌もセリフも、音響でエコーをかけている効果もあると思いますが吉野さん独特の響きが幻惑的でこの役にドンピシャ。
「愛を知る時」なんて、ソロでたくさん歌った終盤に藤ヶ谷さんを持ちあげながら歌ってますからね…スタミナと安定感よ。
カテコの「何かが変わり始めている」では笑顔でステップを踏むお姿を拝見できて、本編とのギャップが嬉しいしほっとします。

ちなみに、原作でドンジュアンは落雷に打たれて命を落とすのですが、この作品で亡霊さんが現れる前後に雷鳴が轟くのは これが元ネタになっているんですね。
「愛が、呪い」の前に雨だれのような水音が入るのは、決闘(=落雷)の前兆という意味なのでしょうか…

上野水香さん

豪華すぎるキャスティング!よく天下の上野水香さんを引っ張ってきましたよね…
素晴らしいスタイルでたくさん人がいる酒場のシーンに出てきてもぱっと目を引きますし、セクシーを通り越して彫刻のように芸術的で美しい体型なので、エルヴィラはじめ他の女性たちとは一線を画す存在という印象を強く受けます。
エルヴィラが「こんなこともできるのよ」と直接的に男たちを誘惑しようとする横で、肝心のドンジュアンは洗練された身のこなしのアンダルシアの美女の髪を撫でたり腕に触れたり、どこか上品にいちゃついているのがなんとも皮肉。
でもセックスアピールでドンジュアンの興味を引くという意味では他の女性たちと同じで、それがマリアとの決定的な違いですね。

象徴的な演出だなと思うのが、Du Plaisir~アンダルシアの美女の場面でドンジュアンが持つ赤いバラ
このバラ、最初にアンダルシアの美女に差し出すも無視されてカルロに押しつけられ、アンダルシアの美女のナンバーの始まりで再度ドンジュアンが彼女に渡すと、受け取った後に投げ捨てられます。
これを回収したイザベルが「望むならば」の後アンダルシアの美女とハケていくドンジュアンに渡そうとしますが、彼は受け取らないまま去る。
つまり、結局ドンジュアンからアンダルシアの美女にバラが渡ることはありません
冒頭のシーンでカルロ・ドンルイ・イザベル・エルヴィラが持っているのも、ドンジュアンの死と共に降ってくるのも赤いバラ。
きっとこの作品における愛の象徴。
アンダルシアの美女もバラを与えられなかった女たちの一人であり、彼女もまた自ら受け取ろうとしないところを見ると、愛ではなく割り切った関係を求める ある意味ドンジュアンと同類の存在として描かれているように感じます。

彼女はカルロとイザベルが「行かないで」を歌っているときに再び出てきてソロで踊りますが、圧倒的な身体コントロール技術を感じる美しさにうっとり。
初見のとき、上野さんが出てくださったからにはできるだけ踊っていただきたいのはわかるけどストーリー展開的にドンジュアンほったらかしで一人なのは変じゃない?と思っていましたが、最後にちゃんとドンジュアンと絡むので違和感が払拭されるんですよね。
生田先生の演出の工夫もさすがです。

春野寿美礼さん

イザベルはドンジュアンを愛する女たちの一人ですが、マリアやエルヴィラとは違って どこか達観しているような彼女の言葉の重みに春野さんの声がマッチしています。
歌声はもはや言うまでもなく。
天から降り注ぐような真彩ちゃんの声とは違い、一音ごとに心に刺さるような太い芯を感じる声

美しくて強い春野さんのイザベル。
ドンジュアンと二人きりでやりとりする場面がないのに、春野さんの視線から二人の過去を想像させられます。
「愛してる!」と叫ぶマリアとも「私の夫」と主張するエルヴィラとも違う立ち位置。
でも、もしかしたら誰よりも長く強くドンジュアンへの愛を抱き続けているのは彼女なのでは?
「この身体に永久に焼きついた 一夜の思い出抱きながら」ずっと愛の牢獄に囚われているイザベルが容易に目に浮かぶほど、強い余韻が残っています。

鶴見辰吾さん

私はMIU404のオタクなので、1話限りのゲストとはいえ このドラマに出演した鶴見さんが今回いらっしゃるのが嬉しくて。
MIUで鶴見さんが演じた田辺さんは、息子の味方になりきれず死に追いやってしまった父親でした。
対するドンルイは、ただ一人の味方だと息子に伝えていたのに死にゆくのを止められなかった父親。
フィクションとはいえ、この対比を考えると人の世とは…としみじみしてしまいます。

あの衣装を身にまとって違和感がない存在感と威厳
父親として、家長としてドンジュアンを思い、態度や言葉の端々から強く愛情がにじみ出ている鶴見さんのドンルイ。
春野イザベルと同様に、若者たちとは違う視点からすべてを見通しているような 人としての深みを感じます。
細切れにしか登場しないのに、その数少ない場面からセリフや歌詞の裏側にある思いを想像させるお芝居はさすがの一言でした。

アンサンブルキャスト

お一人ずつに触れることはできませんが、ざっくりした感想を。
まず、雪組ファンはプロローグの女性アンサンブルを見てドレスのデザインや振付にシルクロードの砂たちを思い出したはず。
ここ、本当に役名が砂の女だそう!(ソースは小石川茉莉愛さんのインスタ)
生田先生、ブレませんね(笑)
演出の意図もおそらくシルクロードと同じで、「砂は人よりも長い時間そこにいてすべてを見てきた」ということを意識していると思われます。
でもシルクロードの砂たちが妖しくて儚い印象だったのに対し、戦場でラファエルたちを翻弄するドンジュアンの砂たちには強さと残酷さを強く感じます。
その他の場面も、男性も女性も情熱的で華麗で、個々の力量の高さを感じるキャストさんばかりでした。
この作品には必要不可欠な圧倒的な熱量で世界観をつくってくださった皆さんに拍手。

考察

ここからは特に重要なのではと思う考察ポイントを挙げていきます。
とにかくテーマが深い作品なので観る人によって印象も考えることも大きく変わると思いますが、私個人の見解として読んでいただければ。

亡霊の存在

亡霊がどういう存在なのかということが、この作品を考えるうえで最も重要な鍵であり最も答えを出すのが難しい問題だと思います。
私がヒントにしたのは、顔が右側はがっつり白塗りでメイクされているのに左側は肌の色が多めに見えているというビジュアル。
これは、亡霊の存在が一面的ではないことの表れなのではと考えました。
あと、「私の声が聞こえるのはお前一人だ、姿が見えるのもお前だけだ」というドンジュアンへのセリフ。
マリアもエルヴィラも声聞いてるじゃん!と突っ込みたくなるところですが、生田先生がそれに気づいていないなんてことはないはず。
つまり、二人が聞いたのは「亡霊」の声ではない。
マリアはいつも像を彫るときと同じように石の声を聞いていると思っているでしょうし、エルヴィラには亡霊の声どころか天啓のように聞こえたでしょう。

では、ドンジュアンにとっての亡霊とは何なのか。
これも場面ごとに異なる解釈が要されるように思います。
1幕では「亡霊」という役名のとおり罪を犯したドンジュアンにとり憑いた呪いの声ととれますが、騎士団長その人の声なのかというと違うような。
亡霊が咎めるドンジュアンの罪とは、団長を殺したことではなく 周囲から向けられる愛を踏みにじり続けていることだと感じるからです。
では誰の声かというと、何の捻りもないですが「神」ではないでしょうか。
でも自分のことを「神が棄てた」と言い、「聖書に唾吐く」彼には 自分を呪っているであろう騎士団長の姿として亡霊が見えた。
典型的な無信教の日本人である私にはキリスト教的価値観は想像することしかできませんが、神って結局は人の心が生むものだと思うのです。
だから、愛を知って生まれ変わり、それぞれ別の道を行くと亡霊に告げられた後のドンジュアンが聞く声は 心の中にいるもう一人の彼なのでは。

例えば、「誰に対しても情けはかけない」での演出。冒頭で亡霊がドンジュアンに剣を渡し、その後ドンルイがその剣で亡霊を刺します。
これは、亡霊がドンジュアンの心(の中の悪や憎悪)と一体になっていることの現れと解釈して良いはず(ちなみにドンルイに刺された後、亡霊は少し体勢を崩しますがすぐに元通りになって悠然と剣を抜きます)。
さらに、この曲ではドンジュアンと亡霊がユニゾンで歌うパートも。

そしてラストシーン。
人々がドンジュアンの亡骸を起こすと、亡霊がドンジュアンにぴったり重なるように正面に立ち、その後亡霊が上手側に移動して二人がまったく同じ体勢で横に並びます。
二人が一心同体という印象を強く受ける演出。
一番最後は亡霊がドンジュアンの身体をなぞるように手をかざして彼は再び目を開け、亡霊と共に光が満ちる舞台の奥へ去っていく…
ドンジュアンを殺したのも救ったのも結局彼自身なんだなと感じさせられます。

キリスト教的世界観の反映

ドンジュアンが聞いた亡霊の声は神の声だったのではないかと書きましたが、それ以外にもキリスト教的世界観を感じさせる演出がこの作品には多くあります。
雪組版よりもさらに強調されて何度も出てくるのが「蛇」というワード。
これは当然、アダムとイブの逸話からきているものですよね。
また、直接的なセリフとしてはマリア・マグダレーナという言葉も。

マリアはドンジュアンとの出会いの場面で最初に石像の顔に頬を寄せます(真彩ちゃんが 佐野藍さんのアトリエにて同じような構図で撮った写真を投稿してくれています)が、2幕でも同様に眠るドンジュアンに頬を寄せます。
彼女の名のとおり、聖母子像さながらの画。
真彩ちゃんの表情がなんとも神々しかったのが印象的です。
そして彼女が大の字に倒れた状態で亡くなったドンジュアンを起こし、口づける姿はピエタのよう。
また、両手を広げ項垂れた状態で人々に担がれるドンジュアンの亡骸は 十字架にかけられたキリストの姿を想起させます。
これは彼が悪と憎悪に満ちた己を殺すことで許され、救いを得た象徴なのでしょうか。

名前の意味、ドンジュアンにとっての「愛」

2021版を観て初めて、この作品における名前の意味を考えました。
きっかけになったのは、「石の像」でマリアが何度も呼ぶドンジュアンの名
これを歌う真彩ちゃんの声の深い響きに心臓をつかまれたような感覚になって、明らかになんらかの意図があるであろうこの発声について考えずにはいられなくなったのです。
この作品のソロでもデュエットでも、低音から高音まで美しい真彩ちゃんの歌声に心震える感覚は何度も味わいましたが、私にとって一番衝撃的だったのはこの「ドンジュアン」の声でした。
ではここでマリアがドンジュアンの名を呼ぶ意味とは、と考えたときに思い至ったのが「俺の名は」
どうして今まで何も考えずに聞いてたんだろうと思うぐらい、1幕冒頭からドンジュアンの名が特別であることが描かれていたじゃないかと パラダイムシフトが起きたような感覚になりました。

ドンジュアンの名は、それを呼ぶ者の心に彼の存在を埋めこむ 魔法のようであり呪いのようでもある。
知らず知らずのうちに彼の存在を意識していた(これの詳細は後述)マリアは、名を呼ぶことで彼の運命を自分の運命に結びつけた(やたらポエムですが、マリアのソロのフランス版にこういう歌詞があるんです)。
そして、ドンジュアンにマリアが自分の名を告げたとき、二人は完全に愛=呪いにとらわれたというのが私なりの解釈です。

一方、ドンジュアンが呼ぶ他人の名にも意味があると考えます。
とはいえ、私の記憶が正しければ彼はほとんどマリアの名しか呼ばないんですよ。
数少ない例外が、「セビリアの恋人たち」のマリアを探してるシーンでのカルロへの呼びかけ。
そして、「母上…」という呟き。

雪組版と違い、今回は少年ドンジュアンも彼の母も登場しません。
雪組版では
・KAAT版:少年ドンジュアンが母と関係をもち、それがきっかけで母は自殺
・映像に残っているDC版:少年ドンジュアンに神の教えを説いた母の病死
が回想として描かれ、この体験が彼の屈折を生んだことを想像させます。
特に演出が変更される前のKAAT版は「知らなかった 愛と欲の違いすらも」というAimerの歌詞と直接的につながりますし、悪の華の「神が棄てた 俺を」という歌詞も単にまともな生き方をしていないという程度ではなく、近親相姦の罪が背景にあるとすればその重みがぐんと増す感があります。
DC版では少し違う解釈が要されますが、信心深かった母の命を救わなかった神への信仰を棄てたことが ドンジュアンのあの生き方を生んだのかなと。
では、2021版のドンジュアンと母の関係はどう捉えるべきか。
ドンルイの「(母を)覚えているかな」というセリフの解釈が難しいところですが、物心がつくかつかないかのうちに母が亡くなったために 愛情を注がれたという認識がないまま育ったという背景があるのかなと感じました。
名門貴族の家長である父ドンルイは直接幼いドンジュアンの養育をし、愛を与えるような存在ではなく、その過去への後悔が「私だけがお前の味方なのだ」に繋がると想像しています。
望海ドンジュアンは愛を棄てた男、藤ヶ谷ドンジュアンは愛を知らない男。
話が戻りますが、つまりドンジュアンにとっては名前を呼ぶ=愛情表現なのではないでしょうか。
Aimerで「君の名前を刻んだ 俺の胸に強く深く」という歌詞があるのは(ここ、雪組版では胸ではなく「肌の上」ですよね。ナイス改変)まさにその象徴だと思っています。
それにしても、ファントムのエリックといい、母との関係が拗れを生む展開ほんとに多いですね…

マリアの描き方、ドンジュアンとマリアの関係

生田先生は今回「人格が描かれていない」フランス版とは全く違う形でマリアという役を演出しました。
聖女でも、ドンジュアンとラファエルを惑わすファムファタールでもない。
この描き方に、シルクロードで真彩ちゃんが演じたホープダイヤを思い出しました。
先生はあの作品で“奪われる”“愛される”存在としてだけでなく、時に自らに仇なす人々を“殲滅する”自ら所有者を“選ぶ”存在としてホープダイヤを描いた。
今回も、マリアは二人に“愛される”ドンジュアンの愛の呪いに“巻き込まれる”だけでなく、自らドンジュアンを“愛する”その愛によってドンジュアンを呪いに“繋ぎとめる”存在でした。
一見対照的にみえる聖女崇拝と悪女扱いは どちらも根本的にはミソジニーであるといわれますが、生田先生はマリアを記号ではなく ちゃんと人間として作品に存在させてくれた。

マリアはドンジュアンに「住んでる世界が違う」と言いますが、1幕でドンジュアンがいるのは男女が酒場に集い激しく求め合う本能と欲の世界、「血濡れた悪徳の街」としてのセビリアでした。
一方、マリアがいるのは兵士たちが厳しい訓練に耐え、恋人たちが互いを一途に想う理性と秩序の世界(兵士たちの帰還の場面で、マリアに迎えられなかったラファエルとは対照的に 再会できたカップルが描かれています)。
そんな世界にあって、マリアはラファエルという恋人がいながら「狂おし」い愛を潜在的に求めていたように感じます。
ドンジュアンの噂を耳にした彼女は、本能と欲の赴くまま生きる 顔も知らない彼に興味をもち、規範や道徳に縛られないその生き様に(無意識に)惹かれていたのかもしれません。
だからこそ、「石の像」で石像に語りかけているはずなのにドンジュアンの名を何度も呼ぶのでしょう。

石像を前にしたドンジュアンにマリアは「思ったまま、本能に従えばいいのよ」と言いますが、彼女が石に向けていた本能や愛が ドンジュアンと出会ってからは彼に向かうようになった。
「何かが変わり始めている」でマリアが情熱を解き放つようにソロで踊るのは、ドンジュアンがいた本能と欲の世界に足を踏み入れたことを表現しているように思います。
そして、このときソロを歌っているドンジュアンが抱く赤ちゃんは、おそらく 愛を知って生まれ変わった彼自身を表している。

2021版では1幕ラスト、マリアが迷うように石像(と亡霊)に手を伸ばしますが背を向け、自分からドンジュアンに抱きつきます。
今回、騎士団長の石像がラファエルにとって マリアが待つ故郷の象徴であることが強調されていますが、その像に背を向けることで、彼女はあの瞬間完全にそれまでの自分から「変わった」。
マリアがドンジュアンを愛するのは彼女自身の意思なのか、亡霊に選ばれた結果なのかというのが雪組版を観ても自分の中で答えが出せなかった問いの一つでしたが、この演出は亡霊が導いたからではなく 彼女が自らドンジュアンを愛すると決めたことを表現しているはず。

なぜ仕事熱心だったマリアが石像を中途半端な状態で放り出したのかという疑問の感想を目にしたのですが、彼女は決して仕事に生きていたわけではなく、行き場のない情熱の炎をぶつける相手が石しかなかっただけなのではないでしょうか。
だから2幕以降 彼女が石に向き合う姿が描かれなくなったのは私にとってはごく自然なことに感じられますし、おそらくラファエル戦死の報を受け取ったことで 彼の帰還の象徴である石像を完成させる意味も彼女の中で薄れてしまったのではないでしょうか。
こういう風に表現すると彼女は実に身勝手で、その愛が招いた結末を思えば破滅的でさえあります。
でも、それこそが2021版のマリアが「蛇に噛まれた」一人の人間であるということ。
二人以外の人たちがどうなっても、自分は彼への愛を貫きたいのだという彼女の欲の象徴がラファエルを前にしてドンジュアンに歌う「昔の恋なのよ 今愛してるのはあなた一人だけなの」であり、ドンジュアンへの思いを叫ぶ「愛が、呪い」なのだと感じます。

ドンジュアンとマリア、ラファエルとマリアの関係の違いを表しているのかなと思ったのが「手を引いてハケる」演出。
訓練後の場面でラファエルがマリアの手を引いてハケますが、ドンジュアンとマリアの場合は「何かが変わり始めている」でドンジュアンがマリアの手を引き、「セビリアの恋人たち」ではマリアがドンジュアンの手を引きます。
ラファエル→マリアの一方通行、ドンジュアン↔マリアの相互に通じ合った愛の対比なのかなと。

私はドンジュアンとの出会いがなくても、思いの熱量のズレが重なってラファエルとマリアはいずれ破局を迎えていただろうと感じているのですが、ではラファエルが本当に戦死していたらドンジュアンとマリアはずっと幸せに二人でいられたのかというと それにも疑問を呈したくなります。
ドンジュアンはChangerで「俺の本当の姿を映し出した」とマリアに歌いますが、それは彼の都合のいい思い込みだと思うのです。
マリアに出会う前の彼もまた本当の姿であり、彼女は「よくない話も何をしてきたかも みんな知ってるわ」と言うけど 本当の意味では知らなかった。
彼女の制止に耳を貸さず ラファエルへの嫉妬と憎しみに突き動かされるドンジュアンの姿に怯えと戸惑いを見せるマリアの表情を見ると、それがよくわかります。
マリアが言うとおり、確かに彼は彼女の出会いで「変わった」ように見えた。
でもそれ以前の「ひどい生き方をしてきた」彼が完全に消えてなくなったわけではなく、だからこそそんな彼自身を殺すためにラファエルに自らを刺させた。
仮にラファエルが帰ってこなかったとしても、きっと「悪徳の限りを尽くす」ドンジュアンはいつか再び顔を出したはず。
そのとき、自分と出会う以前の姿も含めて本当の彼を知ったマリアが それまでと同じように彼を愛することができたでしょうか?

雪組版と今回では、ドンジュアンの死の場面にも大きな違いがあります。
マリアの腕の中で息絶える雪組版に対し、2021版ではドンジュアンは駆け寄ろうとするマリアをとどめて一人で死んでいく
これは、真彩マリアが ドンルイの言葉を引用すれば ドンジュアンを救うことも、苦しみを分かつこともなかったからだと思います。
2021版で最後にマリアがドンジュアンの剣を捧げ持っているのは、彼女に出会う前の彼も受け入れて愛することの象徴のよう。
でもこれは彼が剣を手放し、悪と憎悪に満ちた自分を殺した結果であって、彼が勝利していたら マリアが彼のすべてを愛することはできなかったのではないでしょうか。

みちるマリアがドンジュアンの死の引き金になったという十字架をずっと背負って生きていきそうなのに対して、真彩マリアは彼との愛の記憶を抱きつつ未来を見据えて進んでいきそう(わかる人にしかわからない比喩で申し訳ないですが、ラストの真彩ちゃんは2018タカスペ「いのち」のときみたいな顔してるんですよね)。
だから個人的には、真彩マリアが1幕冒頭でドンジュアンを回想する四人の中にいないことがしっくりくるんです。
きっと彼女はこのとき「どこか遠く」(藤ヶ谷さんのこのセリフの言い方がすごく好き)で生きているのでしょう。
一人かもしれないし、新たに愛する人に巡り会っているかもしれない。
私の中の真彩マリアはこういう女性です。


まだまだ書きそびれていることがたくさんある気がしますが、長々と語ってしまったのでここで締めます。
真彩ちゃんが出ている場面はロックオンしていたせいで全体的に見落としている演出もたくさんあるでしょうし、円盤が発売されてからじっくり確認したいところです。
公演に通って熱演を堪能し、作品を考察するという fff/シルクロード以来の充実した観劇体験を与えてくださった2021ドンジュアンのスタッフ、キャストの皆さまに心から感謝です。

我々真彩希帆さまファンには、この作品の大楽を終えるとすぐにDSの配信が待ってますね!
素のキュートな天使ぶりを拝めると思うとわくわくが止まりません。
再びミュージカルで拝見できるのは年明け以降になりますが、宝塚時代からのファンもドンジュアン堕ちの方々も、帝劇・梅芸・博多座へ 音楽の天使の歌声を浴びに行きましょう!
マリアとはがらりと違う役柄になるとのことで、真彩ちゃんの新たな一面を見られるのが楽しみです。