ろっぴーのブログ

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2023「ジキル&ハイド」感想

※ネタバレしています。

※私がこの作品を初めて劇場で観たのは3/12の公演。
海外版の音源を聴いて予習し、ストーリーやキャラクターについて把握した上での観劇ではありましたが、私にとっていわゆる”親キャスト”は柿澤ジキル/ハイド、真彩ルーシー、桜井エマ、上川アターソンとなります。
いろいろと感想を拝見していると、特に柿澤さんと真彩ちゃんの役作りはかなり斬新だったらしい?
でも私は従来の日本キャストとの比較ができないので、2018以前の公演をご覧になってきた方々とは大幅に役に対する印象が異なる可能性があります。

※れなさん回は観られなかったので、ルーシーに関しては真彩ちゃんオンリーの感想です。



殺してしまうほどの理事たちへの憎しみはどこから来るのか?(実行するのはハイドだけど、彼はジキルの「一部」なのだから元々ジキルの中に憎悪や殺意があったことになる)
ハイドが現れる前からジキルが理事たちを「偽善者」と罵るのはなぜか?
というのが、何度か観劇してストーリーに対し抱いた疑問でした。

父を救うために一刻を争うのだという焦りはあったにせよ、理事会で一度提案が却下されただけでそこまでの怒りをおぼえるものかねジキルくん?と思っていたのですが。
それ以前に、そもそも理事たちはなぜジキルを頭ごなしに否定し、嘲笑してかかるのか?を考える必要があることに気づきました。
そこで引っかかったのが、婚約パーティーでの理事たちの発言。
あの場面で理事たちはジキルを「気違い男の息子」扱いし、あからさまに嫌みを言います。
作品上ではジキルが到着する前の出来事なので彼の耳には入っていないけど、エマにやり込められるレベルの悪役ムーブをかます理事たちのこと。
これ以外のタイミングで、ほぼ確実にジキルにも同じようなことを言っているはず。

つまり、理事会では「病院の高い理想」「人を救う」みたいなもっともらしい高潔な理由をつけて患者を被験者とする研究を却下したくせに、
本音では精神病棟の患者であるジキル父を気違い扱いして憚らない連中ということ。
これならジキルが強烈な怒りや憎悪を抱くのも無理はないし、彼が言う「偽善者」という言葉は、理事たちのジキル父に対する都合良く裏表を使い分けた物言い(これぞ、嘘の仮面)に対する非難なのだと腑に落ちました。
やはり、「おやすみ、父さん」に滲む父への愛情がすべての始まりなのですね…


ここで、石丸さんと柿澤さんそれぞれのジキル/ハイドについて。
私の印象では、石丸ジキルは博士らしくちょっと気難しいけど良識あるジェントルマン(まさに旦那様ってお呼びするのがしっくりくる感じ)。
柿澤ジキルは心許した人たちには甘えたさんでかわいい一面を見せるけど、基本拗らせててめんどくさい坊や。
石丸さんとの違いがよく出てて面白かったのが婚約パーティーでの「この悪魔♪」の人たちへの対応です。
石丸ジキルは彼らと笑顔で乾杯を交わすからちゃんと「数少なーい貴重な友人たち」に見えるけど、
柿澤ジキルはグラス受け取るだけで社交辞令0だから知人A・Bによるウザ絡みにしか見えん😂

お二人それぞれに好きだったポイントたくさんあるのですが、厳選した私のツボがこれ↓
石丸ジキルは、Bring on the Men終わりに客席と一緒に拍手してくれるところ。紳士!やさしい!好き!
柿澤ジキルは婚約パーティー後、舞台奥からトップハット+テールコート(で合ってる?)で出てくるシルエット。
「ジョン」って呼びながら登場するのもあって、このままシャーロックやって!となる(SHERLOCKのシャーロックとジョンを連想)(愛と哀しみのシャーロック・ホームズ、さぞ素敵だったでしょうねえ…)

そして、石丸ハイドはジキルの無意識下にあった彼の本能、
柿澤ハイドはジキルが意識的に抑圧していた彼の裏の顔・本心が前面に出た存在なのかなと。
石丸ハイドからは獣じみた野性、柿澤ハイドからは知性も併せ持ったサイコパス的な狂気を感じます。
例えばみんな大好きDangerous Game。
石丸さんは制作発表でおっしゃっていたような”肉食獣”さながらにルーシーを喰らい尽くし自らも悦楽に耽る様子に見えましたが、
柿澤さんはどこか冷めた顔でルーシーが一方的に堕ちていくのを愉しんでいるよう…
でも細かなニュアンスはお二人とも観る度に少しずつ違っていて、その回だけの表情を探りながら観劇するのがとても楽しかった!


石丸さんのThis is The Momentは、この1曲だけでチケ代ペイできる!と思うくらい素晴らしいハイライト。
実は私、石丸さんがこの曲を歌うのを生で聴くのは今回が初めてではありませんでした。
それもコンサートなどの場ではなく、我が推し羽生選手のために足を運んだ2021年のメダリスト・オン・アイスのサプライズゲストが石丸さんだったため、思いがけず生歌を拝聴するという光栄に浴したことがあるのです(自慢です😏)
でも、公演の中で聴くのはまた格別!
貴公子然とし、純粋に研究への熱意に燃えるジキルからハイドへの変身も、一人二役とは信じられないほど恐ろしくて強烈で…
今回でラストのご出演なんてもったいなさすぎると思うのですが、本当に「最後の変身」だったなら、チケットとれたのはものすごく幸運でした。


柿澤さんは…冒頭に書いた通り、親キャストとして私の中でものすごく大きな存在になりました。
柿澤ジキル/ハイド爆誕の日に劇場に居合わせたことは、これまでの観劇体験の中で最も鮮烈な出来事。
あのとき体感した客席の熱狂と興奮、恐ろしい実験を現実に目の当たりにしてしまったかのような戦慄、二つの人格を行き来するお芝居の狂気的な素晴らしさを忘れられません。
きっと今後の日本公演でも主演なさると思いますが、そのとき私の推しが出演していなかったとしても迷いなく観に行くつもりです。
それくらい柿澤さんが演じるジキルとハイドのファンになってしまった自分がいます。
もちろん真彩ルーシーも続投してくれたら最高なのですが、だとしてもその前にもっと健全でハッピーな関係の役での共演を挟んでいただきたいものですね。
こちらのメンタルヘルスのために笑


ここからは二人の女性、エマとルーシーについて。
この二役についてはね~メインで出てくる女性が絵に描いたような聖女と娼婦の二人ってどんだけステレオタイプ
でもルーシーはまだ人間的に描写されている面があるからましかな、
エマは男(ジキル)にとって都合の良い要素だけを集めて成型したようなキャラクターに見えて(演者ではなく作品の問題だと思います)、なんとも苦々しい気持ちになります。

例えばエマが歌う「羽ばたきたいの」がルーシーの「飛び立つのよ」との対比になっているのはわかるけど、
じゃあエマはどこに羽ばたきたいの?とか。
現代の価値観で捉えるべきじゃないのはわかってるけど、父の庇護下から離れて自分が選んだ結婚相手と家庭を築くことは果たして「羽ばたく」と言えるのか。
あと何と言ってもラストシーン。
ジキルもアターソンも、実験の内容やハイドの存在についてはひた隠しにしていたわけじゃないですか。
エマは何も知らないのに狂気じみた様子の夫に殺されかけて、知人(ストライド)を目の前で殺されて…
それで「苦しかったでしょう、ヘンリー」ってなるか普通??
あのときジキルはもう死んでるから自分に危害を加える恐れはないとはいえ、恐怖、怒り、茫然自失といった状態にならないのがどうしても引っかかる。
しかも「二人は自由よ」の二人=ジキルとハイド説があって、確かにお芝居の流れだとそう聞こえるけど、
だとしたらあの状況でハイドの存在を理解して受け入れてるエマ、物分かり良すぎません?
これは共感できる・できないの話ではなく、キャラクターの造形における一貫性の問題だと思うんですが…
エマは「ロンドンいちの美女」で、父親思いの娘で、ジキルへの変わらぬ愛を持ち何があっても信じて待ち続ける恋人で‥っていう記号にしか見えないんですよね。
人間としての彼女の顔って何だったんだろう、と考えてしまいます。


ルーシーは、そんなエマとは対照的な存在。
ジキルから精神的な愛情を向けられるエマに対して、ハイドから肉体的な支配欲を向けられるのがルーシー。
Facadeで通りすがりの男に娼婦として一方的に搾取された後、カルー父娘を前のめりで食い入るように見つめるのが真彩ルーシーの登場シーンです。
羨望と憧れがまざったようなあの瞳、そして我に返ったように二人から視線を逸らす…
セリフのないわずか数秒ですが、ここで持つ者と持たざる者であるエマとルーシーの対比が提示されます。
エマが持ち、ルーシーが持たないものは家柄、富、教養、そして愛を与えてくれる存在…

真彩ルーシー、「どん底」の場面を観ているとショーでのパフォーマンスとか客への誘惑のかけ方とか、
接客について教え込まれていることは一丁前の娼婦としてこなしてるように見えます。
でも自分の店なのに、ショーが終わって話相手もいない状態になると途端に所在なさげ。
この子は「娼婦ルーシー」としての顔しか持っていない、本当は自分が何をしたいのか、どう生きたいのかわかっていないし、
そもそも生きたいように生きるという選択肢すら頭にないのだ、と感じさせられました。
そんな彼女がジキルに思いもよらない言葉をかけられる度、どんどん娼婦としての”仮面”が剝がれて素の空っぽな少女が顔を出す…
そう、真彩ルーシーは少女なのです。
当時の平均寿命からも、20歳にいかないくらいの年頃なのではとツイートしてる方を見かけましたが同感。
1900年頃、イギリスの平均寿命は50歳。でも彼女が暮らしているスラムの劣悪な環境は、当時20代半ばが平均寿命だった途上国と大きく変わらない可能性が高い…とすれば、妥当な推測ですよね。

「友達が必要になったら」「私でお役に立つならば」。
客やスパイダーたちにはもちろん、街で行きかう人々にも常に娼婦としてしか見られず、接してこられなかった彼女を、
初めて人間ルーシーとして(しかも当たり前のように)見てくれたのがジキルだったのですね。
真彩ルーシーの彼に対する感情は、いわゆる恋愛感情というより、
恋に恋してる少女が抱いた敬愛混じりの淡い憧れという印象を受けました。
それはきっと、カルー父娘に向けていた視線と無関係ではないはず。
あの表情には父親の愛への憧れがあり、その理由は彼女が親に売られたor孤児として娼館に連れてこられたからなのではないでしょうか?
どちらにせよ、物心つくかつかないかという頃からあの環境に身を置いているのだと思います。
だから愛を知らなくて、文字を読むのもおぼつかない。
彼女の実年齢の幼さと、娼婦としてやってることとのギャップが性癖という客たちに商品価値を見出されているのでは…と想像してしまって地獄🤮

真彩ルーシーの表情や仕草の一つ一つから彼女が生きてきた人生が浮かびあがってきて、勝手に辛くなります。
腕を振り上げるスパイダーに対する「へへ…」という媚びるような虚ろな笑い。
物乞いの男性に何か恵もうと懐を探ってるうちに、裕福なお嬢さん(エマ)にスマートに先を越された。じゃああたしは…と、何事もなかったとごまかすように去っていく姿。
彼女がジキルのお屋敷という未知の世界に足を踏み入れたときの不慣れな仕草、戸惑い、憧れ。
ルーシーに対するプールの態度を見るに、最初は追い返されそうになったのでは?と思いました。
明らかに娼婦の身なり(このためにお金をかき集めて買ったのか元々持っていたのかわからないけど、安っぽいデザインとちぐはぐな組み合わせが切ない)だし、
そもそも誰とも会わないとジキルにきつく言われてるわけだし。
そっけないプールに、藁にも縋る思いで大事に持っていた名刺を差し出したルーシーちゃんが目に浮かびます😢

ジキルや彼のいる世界への憧れを抱く自分と、娼婦の世界でハイドに流される自分、
という二つに揺れるルーシーが受け取ったジキルの手紙。
ルーシーにカルー父娘への羨望の視線を逸らさせたもの、Someone Like YouやIn His Eyesでルーシーの伸ばしかけた腕を下ろさせたもの…
ジキルの言葉は、その”何か”を振り捨てる勇気や 生への希望を与えてくれたのだと思います。
そして↑2曲での表現があるからこそ、A New Lifeで真彩ルーシーが「これから始まるの」と歌いながら、
思いっきり伸ばした腕の先で拳を力強く握るのがたまらない😭

この曲を歌う彼女の瞳に意思の光が宿る瞬間がとても好きでした。
Someone Like Youですぐに消え去ってしまった漠然とした希望の光とは違う、明確で力強い光。
現れたハイドに怯えながらも、消えなかったあの光…
ハイドへの「やめて」は、自由への翼を与えられたルーシーが発した、
自分を蹂躙する男に対する初めての拒絶だったのではないでしょうか。

ルーシーはハイドの「同情、愛情…」という囁きを聞きながら何を思っていたのか。
これが私にとってジキハイにおける最大の難題で、my楽を終えてしまった今も確固とした答えは出せずにいます。
ただ、この場面で目を閉じて涙を流していた真彩ちゃんが印象的で。
ルーシーとジキルしか知りようがない言葉をハイドが発している、というのは明白なので、
これを聞いてジキル=ハイドだと気づいたのかな?
最後の瞬間まで夢に浮かされているような表情にも見えました。
自分が慕ってきたジキルと自分を征服してきたハイドが実は同じ人物だったのだとしても、ジキルとしての彼を信じようとしていたような…
でも、もっと観劇を重ねて理解を深めたら感じ方が変わるかもしれない。
これは私の作品ファンとして今後取り組むべき宿題ですね😌


脚本については思うところもありつつ、ジキハイ楽しすぎ!何回でも観たい!!というテンションで通えたのは、
キャストやオケの皆さまの素晴らしさも然ることながら、やはりワイルドホーン大先生の音楽のクオリティーの高さあってこそだと感じます。
ソロもデュエットも大人数のナンバーも、どれをとってもテンション上がる。もはやクスリ
ということで、最後に音楽の構成の話題を1つだけ。

Once Upon A Dream終わりにエマが研究室を出ていくときの「あなたの私よ どこまでも」とラストの「二人は自由よ いつまでも」のメロディーの一致についてです。
特に「いつまでも」の部分が耳に残るんだけど、それは”F#→B→A#→G(Fダブルシャープ)→F#”という音の進行をとってるから。
本来G#をとるべきところで半音下げてGにすることで、Fis Durのはずの旋律がgis mollっぽく聴こえる、
つまり暗めの響きになり、不穏な結末を示唆するという構成になってるんですね。面白い。
もっと注意深く耳を傾けたら、こんな風に巧みに作られているポイントにたくさん気づけるんだろうな。

次の日本公演を観劇するときまでに音源を聴いて勉強しておきたいです。
でも、今回のプロダクションで円盤出してくれたら言うことなしなんだけどな!ホリプロさん!!