ろっぴーのブログ

大好きな方々を愛でたい

「イザボー」感想

久々の望海さんオリジナル作品出演となったイザボー。
制作陣とキャストの熱量の高さを感じる公演で、
とても満足度の高い観劇体験でした。
皆さん最高!としか言えないので
お一人ずつについて書くのは諦めましたが、
各キャラクターを漫画原作ですか?ぐらい
キャラ立ちさせて魅力的に、
そして技術的にもストレスなく(私にとっては
お金を払って観劇する上でとても重要なポイントです)
舞台上で生き生きと魅せてくれたプリンシパルの皆さま。
時に歌い、時に踊り、あの複雑なセットを縦横無尽に駆け巡り、
熱いパフォーマンスで混沌の時代を体現してくれたアンサンブル、スウィングの皆さま。
あの密度の高い内容で長い公演時間、
舞台のクオリティーを高く保ってくれた
その他すべてのスタッフの皆さまに拍手を。

主に作品の外枠について感じたことをしたためる中で、
クレーム?批判?ととられかねない要素も多くなってしまいましたが…
BWやWEの名作と呼ばれる作品だって、
ワークショップから始まり、ブラッシュアップを重ねて
栄えあるトニー賞ローレンス・オリヴィエ賞にたどり着く。
この世界初演が、ゴールではなく
さらなる進化を見据えたスタートであることを願っていますし、
MOJOプロジェクトにはもっともっと多くの
素敵な作品を生み出してほしいという期待を込めての感想です。


今回の脚本で個人的に一番の欠陥だと感じるのは、
「なぜイザベルがイザボーと呼ばれるに至ったか」
が描かれていなかったことです。
歴史上、イザベルという名の王族はたくさんいるのに
イザボーといえば今作の主人公に限定される。
それはなぜなのか?
それこそが、タイトルがシンプルに「イザボー」
である理由にも帰着する物語の柱になったはず。

ドイツ語圏の名前であるエリーザベトが、
フランス語圏ではイザベルとなります。
ではイザボーは?というと、
イザベル(女性形)を男性形にした発音なのだそう。
つまり、彼女を悪女であると喧伝する風潮の中で
蔑称として生まれた呼び方が、歴史の中で定着したのです。
だから、同じイザベルという名は多く存在しても
「イザボー」で認識されるのは一人だけ。
のはずが、今回は
「エリーザベトがフランスに来たからイザボーと呼ばれている、
イザベルはシャルル6世だけの特別な呼び方」
としか読み取れない脚本になってしまっている。
彼女がイザボーと呼ばれるようになるのは、
「獣になる」と決めた後であるべきでした。
それでこそ、シャルル6世一人がイザベルと呼び続けることの
意味が際立ったのではないでしょうか。

そんな”陛下”シャルル6世こそが、
作中におけるイザボーの行動すべての基盤になっていると私は感じています。
彼の愛によってフランスの人間として生きることの支えを得た彼女は、
疾患によって王としての力を失った彼を
食い物にしようとする摂政たちに対し、
ただ一人彼の味方である自分が力を持てば
彼を守れるのだと目覚める。
王太子を擁する敵対する勢力が力を持てば
自分(と共にあるシャルル6世)に危険が迫るため、
王太子は非嫡出子であると宣言して
彼らに王位が渡らないようイングランドに与える…

すべては陛下のため。
複雑な権力争いの裏にあるものを
どシンプルに落とし込めば、そうなるのだと思います。
夫が国王であればこそ「フランスを守る」
という言葉も出るけれど、
陛下への思いという彼女の個人的な感情が原動力である以上、
国の動向はおまけに過ぎなかったのでしょう。
イザボー個人の目的で動いた結果、
彼女が統治者であるがゆえに国を揺り動かしてしまっただけ。
でも民からすれば、日和見主義の果てに国を売った最悪の王妃…
トロワ条約から間もなく陛下が世を去ったことで、
彼女はようやく公人に付きまとう重荷から解放され
ただのイザベルとして生きることができるようになったのだと、
夢枕に立った陛下との会話と
その後ラストまで彼女が登場しない演出から感じました。

…でもこうやって整理して自分なりに咀嚼できたのは、
複数回観劇したからなんですよね。
初見では特に2幕後半の怒涛の展開がなんのこっちゃで、
イザボーの物語であるはずなのに1本筋が通った感じがしなかった。
一つには、歌詞とセリフの問題があると思います。
特に歌詞が歴史的事実の説明だらけというのは、
聴覚からしか入ってこない大量の情報を
一度で咀嚼するのは無理ゲー、というのもありますが、
それらの出来事が登場人物にどのような影響をもたらし、
どんな感情を引き起こすのかわからないという問題が大きい。
日本人に馴染み深い時代でもないので、
なおさらそこはもっと精査してほしかったなーと。
あと、陛下とイザボーの心の結びつきを印象づける要素があまりにも少ない。
少女時代のイザベルとカトリーヌを同じキャストが演じることによる効果、
というのはもちろんわかるのだけど
それ以上にイザボーの行動の根っこであるはずの
陛下との関係を丁寧に描くことの方が重要では?と思うので
私は望海さんと理生さんに通しで演じてほしかったし、
シャルル6世が狂気に墜ちるまでの尺をもっととってほしかった。
そうすれば初見での腹落ち度はまるで違っただろうなと思います。
あと少女時代のイザベル演出もいまいちピンときてなくて、
「もう私がいなくても大丈夫だね」って言ったはずなのに
2幕でまた出てきたときには正直はあ?となりました。
(言うまでもなく大森さんの仕事は素晴らしいので、
キャストどうこうの問題じゃないよ)

でも一方で、彼女が陛下に対して抱いていたものが
愛だけとも思いません。
狂気に堕ちた彼は、「小さな王妃様」とは共寝するのに自分のことは覚えていない。
そして、錯乱の中で繰り返される一方的な暴力…
憎しみを全くおぼえなかったわけがないと思います。
「硝子の心」では、男女1人ずつで組んだアンサンブルさんたちが二人の周りで踊ります。
振付は、陛下がイザベルにしているのと同じようなこと。
でも、その中には女性が男性を引き倒したり蹴りつけたりしている組がある。
イザベルは狂気の波を耐え忍びながら、
愛憎渦巻く心の中では何度もこうやって陛下への怒りをぶつけたのでしょう。
獣になることを決めた彼女が歌う
「私を不幸たらしめるものへの復讐」。
女であるだけで同じ人間扱いをしない男たち、
王族への不満だらけの民衆だけでなく、
狂気王も彼女を不幸たらしめる存在。
シャルル6世だけを愛しながら多くの男たちに身を売ったこと、
フランスという国を愛した彼にペンをとらせてトロワ条約に調印し、
敵国に王位をくれてやったことこそ
彼女の夫に対する復讐だったように感じられてなりません。

そしてもう一人、この作品を観てイザボーの生き方を考える中で
強烈に印象に残っている人物がヨランド・ダラゴンです。
王が主体的に権力を行使することができない状況では、
王妃といえども名ばかりの脆い存在になりかねない。
だから男たちが持つ力(武力)による庇護を求めて、
イザボーは王妃の肩書が持つ力と自らの体を与えた。
1幕で美しく着飾り、子を産むという「女の役割」
だけを強要するフィリップとジャンに反発し、
「女として生まれてきたこと
それだけが私の証しではない」と言った彼女が、
結局は女であることを利用するしかなかった悲哀を感じずにはいられません…

手当たり次第に周りの有力な男たちからメリットを得ようと取引したことで
汚名を被ったイザボーと対照的なのが、ヨランドの存在。
持参金についてのジャンとの丁々発止のやり取りが象徴するように、
肝が据わっているうえに頭の回転が速く弁も立つ女性です。
イザボーは彼女を小賢しいと評するけれど、
ヨランドが持ち、イザボーが持っていなかったものが二人の行く末を分けました。
ヨランドは表舞台の影から権力の移り変わりを的確に見極め、
勝ち馬に乗り換え続けて勝利王の母となり、
イザボーは守るべき夫を失い、
子どもたちが自らの手を離れたタイミングで表舞台から降りた。

後の時代の人間から見れば、
ヨランドは聡明な女性、イザボーは愚かな敗者に映ります。
でも、私はこの作品を観て、男たちの中を上手くすり抜ける生き方ではなく
愚直な体当たりの勝負しかできなかったイザボーを愛おしく感じました。
シャルル6世の言葉どおり、彼女は何があろうと生き抜いた。
その姿に、大好きなドラマ「アンナチュラル」で主人公が母からかけられる
「生きてる限り負けない」というセリフを思い出しました。
御託はいいわ!と誇り高く突き放されてしまうのだろうけど、
それでも彼女の人生を目撃した観衆の一人として、言いたくなります。
あなたは勝ったとはいえないかもしれない、でも決して負けもしなかった。
天晴れ、イザボー!と。

2023「ジキル&ハイド」感想

※ネタバレしています。

※私がこの作品を初めて劇場で観たのは3/12の公演。
海外版の音源を聴いて予習し、ストーリーやキャラクターについて把握した上での観劇ではありましたが、私にとっていわゆる”親キャスト”は柿澤ジキル/ハイド、真彩ルーシー、桜井エマ、上川アターソンとなります。
いろいろと感想を拝見していると、特に柿澤さんと真彩ちゃんの役作りはかなり斬新だったらしい?
でも私は従来の日本キャストとの比較ができないので、2018以前の公演をご覧になってきた方々とは大幅に役に対する印象が異なる可能性があります。

※れなさん回は観られなかったので、ルーシーに関しては真彩ちゃんオンリーの感想です。



殺してしまうほどの理事たちへの憎しみはどこから来るのか?(実行するのはハイドだけど、彼はジキルの「一部」なのだから元々ジキルの中に憎悪や殺意があったことになる)
ハイドが現れる前からジキルが理事たちを「偽善者」と罵るのはなぜか?
というのが、何度か観劇してストーリーに対し抱いた疑問でした。

父を救うために一刻を争うのだという焦りはあったにせよ、理事会で一度提案が却下されただけでそこまでの怒りをおぼえるものかねジキルくん?と思っていたのですが。
それ以前に、そもそも理事たちはなぜジキルを頭ごなしに否定し、嘲笑してかかるのか?を考える必要があることに気づきました。
そこで引っかかったのが、婚約パーティーでの理事たちの発言。
あの場面で理事たちはジキルを「気違い男の息子」扱いし、あからさまに嫌みを言います。
作品上ではジキルが到着する前の出来事なので彼の耳には入っていないけど、エマにやり込められるレベルの悪役ムーブをかます理事たちのこと。
これ以外のタイミングで、ほぼ確実にジキルにも同じようなことを言っているはず。

つまり、理事会では「病院の高い理想」「人を救う」みたいなもっともらしい高潔な理由をつけて患者を被験者とする研究を却下したくせに、
本音では精神病棟の患者であるジキル父を気違い扱いして憚らない連中ということ。
これならジキルが強烈な怒りや憎悪を抱くのも無理はないし、彼が言う「偽善者」という言葉は、理事たちのジキル父に対する都合良く裏表を使い分けた物言い(これぞ、嘘の仮面)に対する非難なのだと腑に落ちました。
やはり、「おやすみ、父さん」に滲む父への愛情がすべての始まりなのですね…


ここで、石丸さんと柿澤さんそれぞれのジキル/ハイドについて。
私の印象では、石丸ジキルは博士らしくちょっと気難しいけど良識あるジェントルマン(まさに旦那様ってお呼びするのがしっくりくる感じ)。
柿澤ジキルは心許した人たちには甘えたさんでかわいい一面を見せるけど、基本拗らせててめんどくさい坊や。
石丸さんとの違いがよく出てて面白かったのが婚約パーティーでの「この悪魔♪」の人たちへの対応です。
石丸ジキルは彼らと笑顔で乾杯を交わすからちゃんと「数少なーい貴重な友人たち」に見えるけど、
柿澤ジキルはグラス受け取るだけで社交辞令0だから知人A・Bによるウザ絡みにしか見えん😂

お二人それぞれに好きだったポイントたくさんあるのですが、厳選した私のツボがこれ↓
石丸ジキルは、Bring on the Men終わりに客席と一緒に拍手してくれるところ。紳士!やさしい!好き!
柿澤ジキルは婚約パーティー後、舞台奥からトップハット+テールコート(で合ってる?)で出てくるシルエット。
「ジョン」って呼びながら登場するのもあって、このままシャーロックやって!となる(SHERLOCKのシャーロックとジョンを連想)(愛と哀しみのシャーロック・ホームズ、さぞ素敵だったでしょうねえ…)

そして、石丸ハイドはジキルの無意識下にあった彼の本能、
柿澤ハイドはジキルが意識的に抑圧していた彼の裏の顔・本心が前面に出た存在なのかなと。
石丸ハイドからは獣じみた野性、柿澤ハイドからは知性も併せ持ったサイコパス的な狂気を感じます。
例えばみんな大好きDangerous Game。
石丸さんは制作発表でおっしゃっていたような”肉食獣”さながらにルーシーを喰らい尽くし自らも悦楽に耽る様子に見えましたが、
柿澤さんはどこか冷めた顔でルーシーが一方的に堕ちていくのを愉しんでいるよう…
でも細かなニュアンスはお二人とも観る度に少しずつ違っていて、その回だけの表情を探りながら観劇するのがとても楽しかった!


石丸さんのThis is The Momentは、この1曲だけでチケ代ペイできる!と思うくらい素晴らしいハイライト。
実は私、石丸さんがこの曲を歌うのを生で聴くのは今回が初めてではありませんでした。
それもコンサートなどの場ではなく、我が推し羽生選手のために足を運んだ2021年のメダリスト・オン・アイスのサプライズゲストが石丸さんだったため、思いがけず生歌を拝聴するという光栄に浴したことがあるのです(自慢です😏)
でも、公演の中で聴くのはまた格別!
貴公子然とし、純粋に研究への熱意に燃えるジキルからハイドへの変身も、一人二役とは信じられないほど恐ろしくて強烈で…
今回でラストのご出演なんてもったいなさすぎると思うのですが、本当に「最後の変身」だったなら、チケットとれたのはものすごく幸運でした。


柿澤さんは…冒頭に書いた通り、親キャストとして私の中でものすごく大きな存在になりました。
柿澤ジキル/ハイド爆誕の日に劇場に居合わせたことは、これまでの観劇体験の中で最も鮮烈な出来事。
あのとき体感した客席の熱狂と興奮、恐ろしい実験を現実に目の当たりにしてしまったかのような戦慄、二つの人格を行き来するお芝居の狂気的な素晴らしさを忘れられません。
きっと今後の日本公演でも主演なさると思いますが、そのとき私の推しが出演していなかったとしても迷いなく観に行くつもりです。
それくらい柿澤さんが演じるジキルとハイドのファンになってしまった自分がいます。
もちろん真彩ルーシーも続投してくれたら最高なのですが、だとしてもその前にもっと健全でハッピーな関係の役での共演を挟んでいただきたいものですね。
こちらのメンタルヘルスのために笑


ここからは二人の女性、エマとルーシーについて。
この二役についてはね~メインで出てくる女性が絵に描いたような聖女と娼婦の二人ってどんだけステレオタイプ
でもルーシーはまだ人間的に描写されている面があるからましかな、
エマは男(ジキル)にとって都合の良い要素だけを集めて成型したようなキャラクターに見えて(演者ではなく作品の問題だと思います)、なんとも苦々しい気持ちになります。

例えばエマが歌う「羽ばたきたいの」がルーシーの「飛び立つのよ」との対比になっているのはわかるけど、
じゃあエマはどこに羽ばたきたいの?とか。
現代の価値観で捉えるべきじゃないのはわかってるけど、父の庇護下から離れて自分が選んだ結婚相手と家庭を築くことは果たして「羽ばたく」と言えるのか。
あと何と言ってもラストシーン。
ジキルもアターソンも、実験の内容やハイドの存在についてはひた隠しにしていたわけじゃないですか。
エマは何も知らないのに狂気じみた様子の夫に殺されかけて、知人(ストライド)を目の前で殺されて…
それで「苦しかったでしょう、ヘンリー」ってなるか普通??
あのときジキルはもう死んでるから自分に危害を加える恐れはないとはいえ、恐怖、怒り、茫然自失といった状態にならないのがどうしても引っかかる。
しかも「二人は自由よ」の二人=ジキルとハイド説があって、確かにお芝居の流れだとそう聞こえるけど、
だとしたらあの状況でハイドの存在を理解して受け入れてるエマ、物分かり良すぎません?
これは共感できる・できないの話ではなく、キャラクターの造形における一貫性の問題だと思うんですが…
エマは「ロンドンいちの美女」で、父親思いの娘で、ジキルへの変わらぬ愛を持ち何があっても信じて待ち続ける恋人で‥っていう記号にしか見えないんですよね。
人間としての彼女の顔って何だったんだろう、と考えてしまいます。


ルーシーは、そんなエマとは対照的な存在。
ジキルから精神的な愛情を向けられるエマに対して、ハイドから肉体的な支配欲を向けられるのがルーシー。
Facadeで通りすがりの男に娼婦として一方的に搾取された後、カルー父娘を前のめりで食い入るように見つめるのが真彩ルーシーの登場シーンです。
羨望と憧れがまざったようなあの瞳、そして我に返ったように二人から視線を逸らす…
セリフのないわずか数秒ですが、ここで持つ者と持たざる者であるエマとルーシーの対比が提示されます。
エマが持ち、ルーシーが持たないものは家柄、富、教養、そして愛を与えてくれる存在…

真彩ルーシー、「どん底」の場面を観ているとショーでのパフォーマンスとか客への誘惑のかけ方とか、
接客について教え込まれていることは一丁前の娼婦としてこなしてるように見えます。
でも自分の店なのに、ショーが終わって話相手もいない状態になると途端に所在なさげ。
この子は「娼婦ルーシー」としての顔しか持っていない、本当は自分が何をしたいのか、どう生きたいのかわかっていないし、
そもそも生きたいように生きるという選択肢すら頭にないのだ、と感じさせられました。
そんな彼女がジキルに思いもよらない言葉をかけられる度、どんどん娼婦としての”仮面”が剝がれて素の空っぽな少女が顔を出す…
そう、真彩ルーシーは少女なのです。
当時の平均寿命からも、20歳にいかないくらいの年頃なのではとツイートしてる方を見かけましたが同感。
1900年頃、イギリスの平均寿命は50歳。でも彼女が暮らしているスラムの劣悪な環境は、当時20代半ばが平均寿命だった途上国と大きく変わらない可能性が高い…とすれば、妥当な推測ですよね。

「友達が必要になったら」「私でお役に立つならば」。
客やスパイダーたちにはもちろん、街で行きかう人々にも常に娼婦としてしか見られず、接してこられなかった彼女を、
初めて人間ルーシーとして(しかも当たり前のように)見てくれたのがジキルだったのですね。
真彩ルーシーの彼に対する感情は、いわゆる恋愛感情というより、
恋に恋してる少女が抱いた敬愛混じりの淡い憧れという印象を受けました。
それはきっと、カルー父娘に向けていた視線と無関係ではないはず。
あの表情には父親の愛への憧れがあり、その理由は彼女が親に売られたor孤児として娼館に連れてこられたからなのではないでしょうか?
どちらにせよ、物心つくかつかないかという頃からあの環境に身を置いているのだと思います。
だから愛を知らなくて、文字を読むのもおぼつかない。
彼女の実年齢の幼さと、娼婦としてやってることとのギャップが性癖という客たちに商品価値を見出されているのでは…と想像してしまって地獄🤮

真彩ルーシーの表情や仕草の一つ一つから彼女が生きてきた人生が浮かびあがってきて、勝手に辛くなります。
腕を振り上げるスパイダーに対する「へへ…」という媚びるような虚ろな笑い。
物乞いの男性に何か恵もうと懐を探ってるうちに、裕福なお嬢さん(エマ)にスマートに先を越された。じゃああたしは…と、何事もなかったとごまかすように去っていく姿。
彼女がジキルのお屋敷という未知の世界に足を踏み入れたときの不慣れな仕草、戸惑い、憧れ。
ルーシーに対するプールの態度を見るに、最初は追い返されそうになったのでは?と思いました。
明らかに娼婦の身なり(このためにお金をかき集めて買ったのか元々持っていたのかわからないけど、安っぽいデザインとちぐはぐな組み合わせが切ない)だし、
そもそも誰とも会わないとジキルにきつく言われてるわけだし。
そっけないプールに、藁にも縋る思いで大事に持っていた名刺を差し出したルーシーちゃんが目に浮かびます😢

ジキルや彼のいる世界への憧れを抱く自分と、娼婦の世界でハイドに流される自分、
という二つに揺れるルーシーが受け取ったジキルの手紙。
ルーシーにカルー父娘への羨望の視線を逸らさせたもの、Someone Like YouやIn His Eyesでルーシーの伸ばしかけた腕を下ろさせたもの…
ジキルの言葉は、その”何か”を振り捨てる勇気や 生への希望を与えてくれたのだと思います。
そして↑2曲での表現があるからこそ、A New Lifeで真彩ルーシーが「これから始まるの」と歌いながら、
思いっきり伸ばした腕の先で拳を力強く握るのがたまらない😭

この曲を歌う彼女の瞳に意思の光が宿る瞬間がとても好きでした。
Someone Like Youですぐに消え去ってしまった漠然とした希望の光とは違う、明確で力強い光。
現れたハイドに怯えながらも、消えなかったあの光…
ハイドへの「やめて」は、自由への翼を与えられたルーシーが発した、
自分を蹂躙する男に対する初めての拒絶だったのではないでしょうか。

ルーシーはハイドの「同情、愛情…」という囁きを聞きながら何を思っていたのか。
これが私にとってジキハイにおける最大の難題で、my楽を終えてしまった今も確固とした答えは出せずにいます。
ただ、この場面で目を閉じて涙を流していた真彩ちゃんが印象的で。
ルーシーとジキルしか知りようがない言葉をハイドが発している、というのは明白なので、
これを聞いてジキル=ハイドだと気づいたのかな?
最後の瞬間まで夢に浮かされているような表情にも見えました。
自分が慕ってきたジキルと自分を征服してきたハイドが実は同じ人物だったのだとしても、ジキルとしての彼を信じようとしていたような…
でも、もっと観劇を重ねて理解を深めたら感じ方が変わるかもしれない。
これは私の作品ファンとして今後取り組むべき宿題ですね😌


脚本については思うところもありつつ、ジキハイ楽しすぎ!何回でも観たい!!というテンションで通えたのは、
キャストやオケの皆さまの素晴らしさも然ることながら、やはりワイルドホーン大先生の音楽のクオリティーの高さあってこそだと感じます。
ソロもデュエットも大人数のナンバーも、どれをとってもテンション上がる。もはやクスリ
ということで、最後に音楽の構成の話題を1つだけ。

Once Upon A Dream終わりにエマが研究室を出ていくときの「あなたの私よ どこまでも」とラストの「二人は自由よ いつまでも」のメロディーの一致についてです。
特に「いつまでも」の部分が耳に残るんだけど、それは”F#→B→A#→G(Fダブルシャープ)→F#”という音の進行をとってるから。
本来G#をとるべきところで半音下げてGにすることで、Fis Durのはずの旋律がgis mollっぽく聴こえる、
つまり暗めの響きになり、不穏な結末を示唆するという構成になってるんですね。面白い。
もっと注意深く耳を傾けたら、こんな風に巧みに作られているポイントにたくさん気づけるんだろうな。

次の日本公演を観劇するときまでに音源を聴いて勉強しておきたいです。
でも、今回のプロダクションで円盤出してくれたら言うことなしなんだけどな!ホリプロさん!!

日本初演版「ドリームガールズ」感想

※ストーリー、演出のネタバレを含みます。
歌詞やセリフはなんとなくのニュアンスで捉えてください。
また、今回のプロダクションでしかこの作品に触れていない状態での感想なので、的外れな部分や知識不足な面があったら申し訳ありません。

IS THIS FREEDOM?

この作品において、開演前から舞台奥に映し出されている様々な英語のメッセージ。
その中で一番目を引くのは、白字で中央に配置された「I HAVE A DREAM」。
作品タイトルDreamgirlsに通じており、演出面においても極めて重要な役割を果たす言葉であることは、今回の日本初演版の観客にとって共通認識となる点だと思います。

ただ、私にとってはこれと同じくらい作品上大切だと思っている言葉があります。それが、I HAVE A DREAMの向かって右に並べられた「IS THIS FREEDOM?」。
なぜなら、苛烈な差別の状況を示すフレーズ、それに対する抵抗や人として当たり前に認められるべき権利を求める言葉が目立つ中、この2つは特に普遍的なメッセージ性を持つものと感じられたから。
そして1回目にこの公演を観て、「登場人物たちがカーティスの手のひらの上で成功を掴む1幕→現状から脱し、自由を勝ちとろうとする2幕」という構図になっているのでは、と感じたからです。
そこで2回目は最初からIS THIS FREEDOM?のメッセージを意識して観劇したところ、2幕で「自由」という歌詞が繰り返し歌われることに気づき、これは明らかに意図された演出なのだろうと確信したのでした。

ディーナはChicagoで「自由になる」と歌い、自身を縛るカーティスから決別し、
エフィとC.C.はI Miss You Old Friendで「やっと自由になる」と歌い、カーティスのプロデュース戦略により離れ離れになった過去を清算し、
ミシェルはQuintetteで「いい加減自由になりましょう」と歌い、カーティスの指示通り「金になる」曲作りを続けるのではなく、自分の心のままに行動するようCCに促すと同時に、彼女自身の現状への疑問をにじませる。
ローレルは直接自由という言葉を使わないものの、One Night Only (Disco)で「自分のために生きる」と歌い、ジミーとの関係を完全に断ち切ったのだと感じさせる。
The Rapのパフォーマンスでカーティスに見切りをつけられたジミーは、ショービズ的には挫折したのかもしれないけれど、「お前らが消えても俺は残る」の力強さが物語るように あの瞬間に自由を取り戻したともいえるのです。

主人公ディーナが真の自由を手に入れる場面で効果的に使われていたのが背景のI HAVE A DREAM
2幕前半のWhen I First Saw Youで映画出演を望むディーナに反対するカーティス、という二人のすれ違いが描かれたとき、真ん中にわずかな隙間が生まれてDREAMの文字が二つに割れる
つまり、「DREAM」はカーティスが生み出したスターであるディーナの象徴であり、この隙間は彼の夢、そして二人の関係に生じた亀裂を可視化したものであることがここで示されます。
そして2幕終盤、Chicagoの最後にディーナはその隙間を押し広げて完全に分断させ、カーティスの元から去っていくのです。
この場面、先に広がる光(に満ちた彼女自身による選択)に向かっていくというかっこよすぎる主人公演出なのに、颯爽と歩いていくのではなく、身をすくめるように立ち止まってから少しずつ進んでいく望海さんがディーナらしくて大好き。


このように「現状からの脱却、自由の獲得」が前面に押し出されている演出を踏まえると、特に2幕では本来Dreamgirlsにおける主要な軸であるはずの理不尽な差別というテーマが薄められてしまっている点は否めないかもしれません。
それでも、一貫して作品の根底にはこの問題があるのだと印象づける作りだったと感じます。

今回のプロダクションではキャストの肌を塗ることで「黒人」と「白人」の違いを示すのではなく、黒髪とブロンド、パーマがかったヘアスタイルとそうでないもの、など肌色以外のビジュアルで演出を行っていました。
言われなきゃわかんないよ!という細かな点ではあったかもしれませんが、Cadillac Carがパクられる場面など重要なポイントではセリフ上でも明確に説明されていたんですよね。
1幕ではジミーとツアーを回る道中、街中に溢れる差別的な表現が背景いっぱいに映し出されます。
ここでディーナの母親に電話をするとき、ディーナが口元に手をあてて声を潜めるように話しているのも理由があるはずと思って調べてみたのですが、これ!という資料が見つからず。おそらく、「黒人専用」の公衆電話を使っている人がいることを気づかれると暴行などを受ける危険があるからでは?と考えていますが…
その後、マイアミのホテルでの場面。ディーナが明らかにそれまでのパフォーマンスとは違って落ち着きなくきょろきょろしていて、その視線により、実際には舞台上にはいないけれど彼女たちを受け入れていない「白人」たちの存在が浮き上がっていました。ここも望海さん好き!となったポイント。

観客の理解が深まったであろう2幕のタイミングでは、ディーナを囲むファンの女性たちが全員「白人」として登場し、彼女が差別と偏見の対象である「黒人」の中でいかに稀有な存在かを感じさせるほか、ディーナに熱烈なオファーをかける映画のプロデューサー?も「白人」の外見をしています(差別の中でのし上がってきたカーティスが出演に頑なに反対するのは、この点が無関係ではないのかも)。
一方、ディーナが差別と闘い続けた役で映画に出ることにこだわるのは、「黒人」よりも大きな市場をもつ「白人」に迎合したスタイル(2幕冒頭のドリームズなんてまさに、じゃないですか?)を続けることへの抵抗や、彼女個人がアメリカ中の憧れの的になろうとも本質的な差別の構造はなくなっていないことへの葛藤があるからではないでしょうか。


作品全体についての話の最後に、細かいけど好き!となったポイントをいくつか。
①Cadillac Carのメロディーを口ずさむC.C.に真っ先にハモるエフィ
 姉弟として同じ音楽を共有してる感が現れていていいね!となりました。

②Cadillac Carのレコーディング前に十字を切るような仕草をするジミー
 勘違いかもしれないですが。新たな曲を生み出す現場は、彼にとって神聖な真剣勝負の場なのかなとグッときた場面でした。

③エフィとの再会の場面、無名時代と同じような気どらない服を着ているC.C.
 直前までは仕立ての良いスーツを着ているので、ガラッと変わった印象を受けると同時に 彼のエフィへの思いを感じるポイント。

④「限界しか見えてない」(カーティス)に対する「現実だ」(マーティ)という返し
 この言葉遊び感!好きです。

⑤「ありがとう、いい夢を!」
 これも、言葉遊びというか脚本の妙だなと思ったセリフ。
 あえて倒置法を使うことで、「皆さん、私たちにいい夢を見せてくれてありがとう」と「今までありがとう、皆さんもいい夢を見てね」のダブルミーニングにしているのでは?と思っています。

キャスト別感想

ここからは、主要登場人物&それぞれを演じたキャストについてさくっと。

ディーナ(望海風斗さん)

無名の少女時代からスターとして花開くまで、繊細に華やかに演じきった望海さん。大好きです。
今回は楽曲のジャンル的に望海さんの新たな挑戦を感じた場面がたくさんあったのですが、個人的に望海ディーナの白眉だと思うのはエフィとのデュエット(Chicago)。
ショーアップされたナンバーや、セリフをメロディーにのせて一方的に感情をぶつけるナンバーが目立つこの作品。情感豊かな歌声で丁寧に相手と心を通じ合わせるこのデュエットを終盤に聴いて、ああ望海さんの真骨頂ってこれだなとピースがはまるような感覚がありました。
ディーナがやっと自分の本心に向き合い、心の底からの声を届けている場面だからなのでしょうか。楽曲の長さがどうとか目立つソロパートがどうとかではなく、これこそが望海さんだ!と染み渡っていくような感覚が忘れられません。

エフィ(福原みほさん、村川絵梨さん)

作品の根幹であるソウルを担っているエフィのナンバーを、お二人とも素晴らしく聴かせてくれました。
それぞれのバックボーンが出ているのか、福原さんはよりパフォーマー的、村川さんはより役者的な印象を受けましたが、それはどちらが優れているということではなく、両方のエフィを観ることでより深く作品を味わうことができたと感じます。

ローレル(saraさん)

力強くパンチの効いた歌声、特に低~中音域の豊かな響きが印象的でした。
大先輩である岡田さん演じるジミーとの場面でも良い意味で遠慮が見えず、思いっきり演じていたのも素晴らしい舞台度胸だなと。

カーティス(spiさん)

ネタバレ込みでストーリーを全て把握してから観劇したせいか、登場シーンからspiさんの軽めなセリフ回しが胡散臭い!と思ってしまって…笑(もちろん褒めています)
カーティスというキャラクターについてはいろいろ思うところがあります。
ディーナをリードにした後、仕事とプライベートを切り離してしっかりエフィをフォローする様子がないあたり、彼女はいわゆる都合の良い女でしかなかったんじゃない?とか。そもそも本気じゃないならちゃんと避妊しろ(身も蓋もない言い方でごめんなさい)、結果的にお子さんがエフィの支えになっているからといって妊娠で彼女の人生狂わせたことには変わりねえぞ?とか。
ディーナのことも、彼自身は愛していると思っていたのかもしれないけれどそうは見えなくて。そもそも「愛している」とはっきり言うのが最後のデュエットFaith in Myselfだけで、繰り返し言うのは「君は俺の夢」だし。
ディーナは単に美しいトロフィーワイフなのではなく、カーティスが攻略した(成功した、ではなく攻略したのだと思う)ショービズの世界の象徴であり、彼は彼女を愛しているのではなく執着しているんだなという印象です。
…とネガティブなことばっかり書いてしまいましたが、彼はビジネスマンとしては人心掌握術だったり時流の読み方だったり間違いなく優秀で、そのあたりの魅せ方がspiさんは見事だったと思います。
演出の眞鍋さんは今公演のキーワードが「壁」だと話していたそうですが、その一つは社会に色濃く存在する差別。そしてもう一つは、ディーナたちの前に立ちはだかるカーティスという存在なのだと、spiカーティスの佇まいや歌声の圧・迫力によってすっと腑に落ちる感覚がありました。素晴らしかった。

ジミー(岡田浩暉さん)

1幕での勢いある華やかさ、頼りがいのある雰囲気から一転して2幕の「かつてのスター」感が見事でした。
また、ジミーが登場する場面ではどこかとぼけたような印象を受けるのですが、その後の場面からはその要素をあまり感じられなくなっていくところも。冒頭での空気感は長年の相棒であるマーティとの相乗効果によるもので、カーティスと出会い彼の方針で仕事をしていくうちにまとう雰囲気が変わっていったのかなと。
大きく立場が変わろうと、同じ人間が時を重ねたことによる変化なのだと感じられる筋の通ったお芝居、数多くあるパフォーマンスシーンでの力強さ!岡田さん以外のジミーは考えられないと思ってしまうほどでした。

C.C.(内海啓貴さん)

内海さんのC.C.が持つまっすぐさがとても好きでした。
エフィの弟なのにビジネスの上で意見を違えてしまう、という難しい立場に置かれる彼ですが、エフィへの情も仲間たちへの思いも、自分の音楽にかけるプライドも全部熱く客席に届いていて。ミシェルとのやり取りにも、思わず応援したくなってしまう純粋さがありました。

マーティ(駒田一さん)

駒田さんをこのポジションで観られる贅沢!
わかりやすいソロナンバーや長台詞がなくても、ジミーと共に歩んできた年月や業界で生き抜いてきた矜持が伝わってくるこの凄さ…
いち早く、1幕でカーティスと手を切ることを選ぶマーティ。去り際に彼が言う「全部は手に入らない」という言葉が2幕に入ってから他の登場人物たちにも降りかかっていくようですが、これは誰よりも長く業界にいる彼が身をもって知っている真理だったのだろうなと感じました。


日本版としてオリジナルとは異なるアプローチで作られている部分もあると思いますが、間違いなく素晴らしい公演です。
地方公演でも無事に上演が続き、この作品とキャストが放つパワーやメッセージが多くの観客に届きますように。

2022.2.10

自分のために今日の気持ちを残しておきたくて。

羽生結弦選手の北京五輪での戦いが終わった。
2012年のNHK杯で沼落ちした私にとっても、羽生ファンとして迎える3回目のオリンピックだった。

昨年12月26日、全日本選手権男子FSの日。会場で応援しながら地獄のようなしんどい気持ちだったことを思い出す。

初めて大会での4A挑戦を見守るという緊張が要因のひとつだった。
彼の前にも何人ものスケーターが挑みながら、超えられなかった4Aという壁。
五輪メダリストですら「命の危険を感じた」と語って挑戦を諦めたほどのジャンプ。
平昌の後、羽生さんが本格的に4Aに挑むと話したときからずっと、前人未到を成し遂げてくれるかもしれないというワクワクより心配の方が大きかった。
栄光や実績より、これまで幾度となくケガや病気を重ねてきたお身体の健康が大切だと思っているから。
そんなファンは他にもたくさんいて、でも羽生さんはそれすらわかってくれていた上で挑戦を続けた。
2019年のGPF、FSの日の公式練習で初めてファンの前で4Aに挑んだ。
初めて「4A」を自分の目で見てその壁の高さを知ったけど、同時に彼なら本当にやれるかもしれないと少しだけ不安がなくなった。
あのときどんな思いで跳んだのかはご本人にしかわからないけど、私は「大丈夫だよ」とファンを安心させようとしてくれた意図もあったのかなと感じた。
それからさらに2年が経って迎えたのが全日本でのチャレンジ。
やっぱり現地でそれを見るのは怖くて、もし取り返しのつかないようなケガをしたら…と気が気じゃなかった。

もうひとつ地獄のような気持ちだった理由、北京五輪の代表が決まってしまうのが怖かった。
4年前に羽生さんが決死と言ってもいいくらいの覚悟で金メダルをつかみとるのを見届けて、五輪が選手の人生を変えてしまうことを思い知らされた。
あの舞台にまた彼が挑むと思ったら…ただ出場するんじゃない、金メダル候補として出るのがどれほど過酷なことか。
本当の重さは彼自身にしかわからないけど、一介のファンでさえ想像できるほど茨の道なのは明らかだった。
ジャッジは彼の演技に真にふさわしい評価をしてくれるのだろうか、という不安も。
しかも、それだけならまだしも。
競技ファンだけじゃなく一般層も含めて世界中から注目される、それに伴ってほぼ確実に心無い悪意や敵意が彼を襲うだろうと、これまでの道のりを追ってきたファンなら予想できてしまう。

4A失敗を見るのは怖い。
でも4Aの成功は、ほぼ確実に羽生さんの全日本優勝=北京五輪行きを意味する。
進むも地獄、退くも地獄とはこのことか…という緊張。

そして結局、羽生さんは(おそらく)あのときできる最高の4Aを跳んだ。
その後の演技も完璧そのもので、当然のように優勝して五輪代表になることが内定してしまった。
やっぱり3度目の五輪出場は避けられない定めだったのかな、と受け止めたけど不安がなくなるはずもなく。
でも、翌日の代表選手会見で彼の決意をひしひしと感じて、ここまで羽生さんが覚悟を決めてるんだ、ファンならば北京も全力応援あるのみと気持ちを改めさせられた。


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それから40日余りがあっという間に過ぎて、羽生さんの北京五輪が始まり、今日男子シングルの決着がついた。

羽生さんのFS後、人生で一番泣いた。
平昌でさえそんなことなかったのに、演技終盤あまりの美しさに何も考えなくても涙が出てきた。
一瞬たりともこの伝説を見逃してはならない、となんとか堪えてキスクラまで見届けて。
ほんとうにすべてが終わってから、一気に嗚咽が止まらなくなった。

SP後もその翌日もたくさん泣いた。
でも、今日の涙は全く違う。

SPの後泣かずにはいられなかったのは、彼自身とは全く関係ない原因であのような結果になってしまったから。
精一杯実力をぶつけたうえで転倒したりパンクしたりしたなら、悔しいね、でも切り替えてFSで取り返そう!と思えた。
だけどあれは、完全に運によるアクシデントだった。
全日本の時点であれだけ美しく芸術そのものだったロンカプ。
羽生さんは五輪に向け、さらに非凡な努力を重ねて磨き上げてきたはず。
公式練習の様子を見ても、自信をもって披露できる状態に至っていただろう。
それなのに、完全な形で見せようと挑むことすらできなかった。
こんなに理不尽なことがあっていいのか。
贔屓目と言われるかもしれないけど、羽生さんは誰よりもフィギュアスケートを愛しこれまでの人生を捧げてきた選手なのに。
こんな形でのSP出遅れ、長く現役を続けてきた羽生さんですら初めてだろうし当然ファンは経験したことがない。
少なくとも私は割り切ることなんてできなくて、すべてが終わった今も吹っ切れてはいない。

ただ、今日泣いているときに心にあったのはただただ感謝だった。
どんなときも究極に美しいスケーターである羽生さんへの。
ラストに跳んだ3A~イーグルの美しさといったら!
まるで羽生さんの衣装に合わせたかのように調和した青のリンクであのパートを滑る羽生さんを見て、初めて心の底から「北京五輪の舞台に立ってくれてありがとう」と思うことができた。
不安も絶望も全部を浄化してくれる美しさだった。

10年前に出会って、9年前に沼に突き落とされて、それから今までずっと羽生さんのファンであることを悔いたことは一度もない。
これからも変わらない。
どれだけお金や時間をかけても追い続けたいと思わせてくれるただ一人のスケーター。
今後、彼の記録が塗り替えられるかもしれない。それでも、私にとってGOAT=Greatest of All Timeは羽生結弦しかいない。
これから彼がどんな道を進むのかわからないけど、何があっても心から愛しています。
世界中のファンからのお疲れ様でした!とありがとう!が羽生さんに届いていますように。
あなたを応援することができるのは何よりの喜びです。
どうか健康でいてください。宇宙一幸せでいてください。

真彩希帆ディナーショー「espressivo」感想

発売日に毎回ひたすら電話をかけ続けても全く席をとれなくて虚しい思いにさせられていたので、配信が決まったときは嬉しすぎて目を疑いました。梅芸さん本当にありがとうございます。

ドンジュアン大楽の翌日だし、いくら元気ハツラツ真彩ちゃんでも構成を変えるのはきついだろうなと思っていたけど やはりタカホと同じセトリでしたね。
トークは特に印象的だったところをさらっと振り返るにとどめて、配信を観ながら書いていたメモをもとに曲メインの感想でいきます。
(超ハードスケジュールの真彩ちゃんに比べれば私なんて全然なんだけど、ドンジュアンの記事でかなりエネルギーを消耗した感じがありまして…😂
あれ書くのに何日かかったか思い出したくない)

1着目の衣装はピンクのグラデーションが鮮やかなドレス。ふわっと大きく膨らんだデザインでかわいい。

地上の天国(ONCE UPON A TIME IN AMERICA)
奇しくも、ワンス公演期間中に宝塚はじめとするエンタメ業界に大打撃を与えたコロナ禍とこの曲の歌詞がリンクするんですよね。
休演期間中、この曲の冒頭の「もしこの世に天国があるというなら それはこの劇場に」という歌詞を噛みしめていたことを思い出しました。
ワンス大楽の中継を観ながら、「輝く未来信じて」の重さがずしりと胸にきたことも。
在団時Le Voileでは観客の前で歌うことが叶わなかった真彩ちゃんが有観客でこの曲を届けられたことに まだ完全に元の世界には戻っていないけど、公演当時よりは確実に前に進んでいると実感しました。
この曲を聴くと公演中止の記憶に引きずられていつもなんとなく切ない気持ちになっていたけど、今回記憶が上書きされたので これからは幸せな気持ちに浸れそうです。
ありがとう真彩ちゃん!

Maiden Voyage(SUPER VOYAGER!)
「憧れのあの人が来る」を 肩をすくめて幸せそうな笑顔で歌うの、公演当時と全く同じだー!!ってテンション上がりましたよね、皆さん!?
ただただかわいい。
このプロローグは船長に扮した望海さんがとにかくかっこよくて、セーラー衣装の真彩ちゃんが最高にお似合いで…(安定にだいきほの亡霊)

Mélodie de Paris(ファントム)
さりげなく音程がとりにくい難曲なのに、ドレスを翻してふんわりと回りながら圧倒的余裕で楽しそうに歌ってしまう真彩ちゃんを見ていてふと気づきました。
公演中、この曲はエリックに出会って覚醒する前のお芝居として敢えて拙く歌っていたんだから、真彩ちゃんの本気モードで初めて聴けた貴重な機会だったのでは?
タカスペ2018でも歌っていますが、このときは公演真っ最中だったせいか あまりこういう風に感じなかったんですよね。
ほんとにびっくりするぐらい上手い。改めて、凄いです。

Maria Mari(Music Revolution!)
このソロも大好きでした。
大劇場ではソロではなくカチャさんと二人での場面だったけど。
美しい背中をとくとご覧あれ!な当時の振付と同じように動いてくれて、さすが真彩ちゃん、ファンのツボをよくわかってるなと。(当時もお手紙とかでココ好きです!ってたくさん届いてたのかな?)
途中のフェイクも公演当時よりパワーアップしてましたね!

革命の犠牲者(ひかりふる路)
真彩ちゃんのマリーアンヌ!
今の真彩ちゃんがこの曲を歌うのを聴けて嬉しい。
「革命に忍び寄ろう」の恨みと悲しみに支配された目に鳥肌です…

雨の凱旋門凱旋門
今回は純な女の子という印象を強く受ける声で、これは真彩ちゃんだからこそのジョアンだなと。
マリアを経ての歌声だと思うと、なんだか感慨深くもあり。
最後、目を閉じて顔を上げたポーズに 雨降るパリの景色が見えたように感じます。


ここのトーク役によって声を変えるという意識のお話がありましたが、望海さんにも真彩ちゃんにも常々ファンが感じていることですよね。
マリアはキャラクター的に素の真彩ちゃんが垣間見えるような瞬間があるなと感じていましたが、こうしてトークで地声を聞くと やはり役としての声は全く違うんだなと。


愛の歌(皇帝と魔女)
文化祭の音源からの歌い継ぎで、進化した今の歌声を披露。
ブリドリ公開収録と公演のHOMEを聴き比べたときも感じることなんですが、何が一番違うかというと 抑揚と歌詞の表現ですね。
それこそ 革命の犠牲者のように具体的ストーリーを伝えるナンバーではない 抽象的な思いを歌った曲であっても、ちゃんと歌詞に応じた声の使い方や歌い方ができるって当たり前ではない。
逆に言うと、どれだけ緊張している状況でも生まれもった歌声の美しさというポテンシャルは存分に発揮されているわけで、そこが非凡なところだなと。

一度ハートを失ったら(ミー&マイガール
吉田優子先生が弾くピアノに手をかけて歌い始めた姿が、本当に音校時代の生徒としての真彩ちゃんを見ているみたい。
穏やかな曲調から最後の盛り上がりに向かって抑揚をつけながらじっくり聴かせる力量がさすがです。
これでLe Voile、NOW ZOOM MEと合わせてミーマイの代表的なナンバーは聴けたことになり、真彩ちゃんこの作品大好きなんだなあ、サリー似合うだろうなあと改めて思います。


バンドの皆様がアラジンのFriend Like Meを演奏している間に着替え、Le Voileでお披露目されたあの黄色のドレスで登場。
柔らかい色味で、真彩ちゃんがもつ明るさエレガントさに本当にしっくりきます。


夢はひそかに(シンデレラ)
みちふうの伝説の名場面でおなじみの曲。
真彩ちゃんが夢みるプリンセス自身というよりは、子どもたちにおとぎ話を語り聞かせるような優しい歌い方だなと思いながら聴いていました。
これぞ耳福。音源がもしあったら、安眠効果ものすごいんじゃないでしょうか。

ここでアラジンの衣装から派生して、MRのガウチョの話に笑
しかも「望海さんが帽子被ってかっこいい場面です!」って相変わらず望海さんへのLOVEが強い😂
こんなこと話すつもりじゃなかった!って明るく笑ってるのがかわいすぎますね。


Part of Your World(リトル・マーメイド)
ファンみんなが待望していたであろう真彩アリエル!!
娘役としてアリエルの声を理想としていたとのことですが、少なくとも私は初めて真彩ちゃんの歌声を聴いたときからアリエルを連想していたなと思い出しました。
音楽の天使=クリスティーヌというのはもちろんあるのですが、「何としても自分の声にしたい」とアースラに思わせるほどの美しい声って、こういう声なんじゃないかなと思って。
合間のセリフ部分も、まさに歌っているような軽やかさで最高…

Journey to the Past(アナスタシア)
強い意志をもって前に進もうとする歌詞が真彩ちゃんにぴったり。
細かいツボなんですが、「ほら Family」の“ほ”が美声すぎて!
ここはファルセット寄りの発声だったかなと思いますが、ラストにかけては地声に近い力強い歌声も。

私だけに(エリザベート
宝塚版のキーということもあるのか、この曲は完全に娘役の発声で歌っている印象でした。
この後ご本人がおっしゃっていたように、聴いている側がイメージする以上にエネルギーとスタミナを要する曲だと思うのですが、危なげないのがさすがです。
最後のハイトーンもこれ以上ないくらい、きっちり上から音をあてている完璧な出来。
CDに収録されているし、定番曲すぎて私が会場にいたら手を挙げなかったかなとも思うのですが、やっぱり聴いてみると真彩ちゃんver.をライブで聴けて嬉しいなと思いますね。


研5の試験で歌った曲…?というトークThink of Meをさわりだけ歌ってくれましたが、これこそフルで聴きたい曲!!と観ていた人全員が思ったはず。
今回はファントムの曲が多め かつ在団中に歌った曲がメインの構成なので見送りになったんですかね…
いつか聴きたい!!願わくばそのときは望海ファントムも一緒にいてほしい!!!


On My Own(レ・ミゼラブル
初日サービスということで、2番目だったこちらの曲も!嬉しい!!
終盤「幸せの世界に縁などない」の泣いているような歌声に心臓をつかまれたような感覚になりました。
命をあげようもそうですが、新妻聖子さんの思い出を強くもっている真彩ちゃんにとっては長年の憧れの曲なんでしょうね。

My Everlasting Dream
Le Voileと同じく、このドレスといえばこの曲。
宝塚での歩みを振り返りつつ感謝を伝えるニュアンスを強く感じたあのときと比べると、今回はこれから踏み出していく冒険へのワクワク感が強かったかな。
高音とか今回のほうがより伸びやかな気がして、本当に進化を止めない方だなあと。
夢を追う真彩ちゃんを我々もずっと追いかけていきますよ!


My True Love(ファントム)
バンドの皆様の演奏はHOMEとYou are Music。
そして、最後の衣装はスパンコールが美しい深い青のドレス。
今回はどれもオフショルダーのデザインでしたが、首からデコルテのラインがほんときれいです。
まさに、天から降り注ぐような美しい歌声!
公演(特に大楽)は訴えかけるような切実な響きだったので、優しく語りかけるような歌い方も新鮮で素敵でした。
より大人のクリスティーヌという感じかな。

Higher(アリージャンス~忠誠~)
ともに規格外の歌声の持ち主とはいえ、濱めぐさんと異なる声質の真彩ちゃんが歌うと、ずいぶん違う印象に感じます。
一度聴けば口ずさめるようなキャッチーな曲でも、観客みんなが知っている曲でもないという時点でハンデのある選曲だと思うのですが、真彩ちゃんには曲の中でのストーリーや感情の移り変わりを表現することで最後まで引きつける力がちゃんとあって、これぞミュージカルナンバーという醍醐味を感じることができました。


おひさま~大切なあなたへ(平原綾香さん)
アンコール。
こちらも、真彩ちゃんの宝塚での歴史を語るうえでは避けて通れない妃海風さんに縁のある曲ですね。
個人的には大好きな小説の主人公のイメージソングでもあり、真彩ちゃんの歌声で聴くことができるなんて至福でしかありませんでした。
会場にいるお客さん一人ひとりの目を見て歌詞を届けるように歌う真彩ちゃんはまさにおひさま。
こんなに朗らかで温かくてひろやかな心をもった、しかも天使のような歌声の人なんて他にいるでしょうか?
健康でいてください!と我々に何度も語りかけてくれましたが、真彩ちゃんこそ!ですよね。
推しの健康にまさる幸せはありません。

ドンジュアンから息つく間もなくこのDSを終えて、さらに今週末のトークショーも終えればようやく少しお休みできるでしょうか。
お仕事が充実していて嬉しいからこそ、どうか日々お元気でと願います。
そして欲をいえば、来月のジャズライブもどうか配信を…!真彩ちゃんの人気の凄まじさとハコのキャパが合ってないので!!

2021「ドン・ジュアン」感想

生田先生の話

本題に入る前に、生田先生の話をしたいと思います。
というのも、私史上最大級に先生への信頼と好き!が高まっているのですよ今。
だいきほファンはデフォルトで先生への好感度が高めだと思うんですが(私の体感)、この作品を見てそれがますます揺るぎないものになった感じ。
そもそも、どうして演出の先生方の中でも生田先生が特別なのかというと、単にお二人の大劇場お披露目&サヨナラ公演を担当したというだけでなく、いろいろな要素がオタクの癖に突き刺さるからですよね。
ひかりふるにおけるマクシムの描き方やマリーアンヌとの関係、大世界に代表される ドハマりせずにはいられないシルクロードの場面構成。
我々と同じような目線でだいきほを見ているからこそできる演出、ということを強く感じるうえに、お二人について熱く語る様子とか公演パンフなどで寄せる言葉をみると、実際に先生自身から“同類”感が思いっきり放出されてる(笑)

ここまで だいきほと一括りにしていたけど、特に望海さんへの愛が重いというのがファンの共通理解だと思います。
望海さんと先生は入団同期ですし、花組時代から関わりが深いですからね。
だからこそ、LOCK ON!やシルクロードのStage Side Watchで真彩ちゃんにも並々ならぬ思い入れがおありなんだなとわかったのが嬉しかった。


真彩ちゃんのドンジュアン(これ以降は、便宜上 中黒を省略します)出演が発表されたとき、ファンの皆さんが最初に感じたのってどういう思いだったんでしょう?
真彩ちゃん寄りのだいきほファンである私にとって、正直なところ、この作品は良くも悪くも近寄りがたい聖域という印象でした。
もちろん、大好きな作品ですし望海さんのドンジュアンも大好きです。ただ、真彩ちゃんを軸にして語るなら、お二人がトップコンビになる前に望海さんがとてつもないパフォーマンスを見せ、ご本人にもファンにも強烈な印象が残っている作品だからこそ、その輪の中に真彩ちゃんが入ることがイメージできなかったのです。
マリア役だったみちるちゃんが雪組に在籍していることを差し引いても、デュエットを聴いてみたいなと興味本位で思ったことはあっても、だいきほでドンジュアンを観たい!という願望は私にはありませんでしたし、サヨナラショーで真彩ちゃんが悪の華~Aimerの場面に出なかったこともむしろ自然だと受け止めていました。

だいきほ退団後はもちろん、この作品と再び縁があるかもしれないなんて全く想像しておらず。
真彩ちゃんがマリア役を務めるというのは、まさに青天の霹靂でした。
退団後初舞台。がっつり恋愛もので、初めて相手役が男性になる。しかも、そのお相手はとってもたくさんのファンをもつジャニーズの方。その作品がよりによってドンジュアンとは、という怯みみたいなものを個人的には感じていました。
不安がたくさんある中で、唯一の安心材料だったのが生田先生が演出を担当するということ。
宝塚の先生方の中でもとりわけ真彩ちゃんのことをよくご存知で、その魅力や実力を大いに引き出してくださった生田先生なら、真彩ちゃんのプレッシャーも和らげてくださるだろうし、真彩ちゃんファンにとってもだいきほファンにとっても安心して観られる作品に仕上げてくださるだろう、と縋るような思いでした。
Domaniさんの対談記事から、私が想像していた以上にお二人の関係が深くて強いものだったことがわかって嬉しい驚きでした。)

先生にキャスティングの決定権があるわけではないでしょうから結果論でしかないのですが、今になって思うと、先生はかなりの長期間かけて ご自身が好きな役者たちをこの作品に引っ張ってきたことになりますね。
作品(特に海外ミュージカル)は2~3年前から企画が動き始めるという通説から考えると、望海さんの主演はおそらく今から8年ほど前に決定。
前回の藤ヶ谷さん主演の際も、2年後の今年に再演することを織り込み済で版権の手続など行っていたと思われます。
そして、2019年当時といえばだいきほの退団時期は当然未定でしたが、トップスター在任期間の通例からすれば2021年にはお二人が退団していることも見越されていたはず。
…と考えると、本当に長期的な計画によって望海さん、藤ヶ谷さん、真彩ちゃんという 先生が大きな愛と信頼を寄せるメンバーがこの作品に関わることが決まったのではないかと思ってしまいます。
「生徒」であるだいきほに対するものとはまた違うベクトルで、先生が藤ヶ谷さんのことをとってもお好きなのが今回よくわかりましたしね。
なんの根拠もない私の妄想ですが、こんな風に考えてしまうのは8割方先生のせいです(責任転嫁)
だって、改めてこれまでの生田先生語録を使って相関図を作ってみたらこんなことになってしまった…

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とにかく思いが重いんです、先生は!これからも存分にキャストや主題へのクソデカ感情を発揮して作品をつくり上げていただきたいです、それこそが先生にしかない魅力の一つだと感じているので。

さてさて、やっと公演の感想に入ります!
書こうと思ったらいくらでも書けてしまいそうなぐらいですが、
キャスト別感想→特に重要だと思う考察ポイント(雪組版との比較も含めて)
という順番で、最大限内容を厳選していこうと思います。

キャスト別感想

藤ヶ谷太輔さん

幸運なことに大阪前半から東京終盤まで複数回観劇することができた中で、一番変化や進化を感じたのが藤ヶ谷さんでした。

とはいえ、では序盤はクオリティーが低かったのかというとそんなことはありません。
望海さんのドンジュアンの幻影にとりつかれている私は、身も蓋もない言い方をすれば 真彩ちゃんのマリアが見られるなら他は満足できなくても目を瞑ろう…というとんでもなく何様なスタンスでMy初日を迎えたわけですが。
藤ヶ谷さんの第一声で大きく認識を改めさせられました。
舞台用の発声がきちんとできていたからです。
3階席にいた私にも全く問題なく届く声量、発している言葉も明瞭。
それはセリフだけでなく、歌い始めてからも変わりませんでした。

さらに畳みかけてきたのが、藤ヶ谷さんが歌う1曲目「俺の名は」最後のロングトーン
この音、男性にとってはかなり高くて難しいと思いますし、ここまで約15分セリフなしで舞台に立っていたドンジュアンが一発目に歌うという点でも緊張が大きいはず。
そんな鬼畜なロングトーンを、最後まできっちり伸ばせている!ということにびっくりでした。
きっちりというのは、芯がある声をキープできているということです。
時々あると思うんですよ、最後まで音程を保って伸ばし続ける技術がないからビブラートでなんとなくごまかしているケース。
これは一定の長さを伸ばしたうえで余裕をもってかけるビブラートとは別物だと思っています。
だから藤ヶ谷さんがそういう小手先テクニックを使わず、愚直といっていいぐらいに全身全霊でこの役に挑んでいることがこのロングトーンから伝わってきて、「ナメてました、ごめんなさい!」と内心反省しました。
と同時に、藤ヶ谷さんの歌に関しては「この曲歌えるの?」と構えながら観る必要は一切ないな、という信頼も抱きました。

一方、初めて観たときに惜しいな、もったいないなと思ったのは声色の使い分けや表情でのお芝居。
藤ヶ谷さんは やや高めで濁りがなくよく通る声をお持ちなので、Aimerとかマリアとのデュエットみたいなナンバーにはそれがすごく合うと思うんです。
端的にいえば、王子様役がしっくりくる声。
でも、この役はそういう場面だけではない、というかむしろ悪や憎悪や欲といった要素を思いっきり出さないといけない。
それを考えると、場面によってはもっとがなるようなドスをきかせたり、低めの発声にしたりしてくれたらなという物足りなさがありました(これは間違いなく望海さんの影響です笑)

そして、表情。
特に1幕に対する印象ですが、「悪徳の限りを尽くして生きた」に寄せた望海さんに対し、藤ヶ谷さんは「石のような冷たい心」に寄せたドンジュアン

マリアと出会ってから子どもみたいに純粋な表情になるのは同じですが、それまでの望海ドンジュアンにはずっと昏い欲の炎が燃えているけど、藤ヶ谷ドンジュアンは 女たちを弄びながらも自分の心の奥底には何も寄せつけない“無”のように感じます。
だからこそ、心を閉ざすような無表情のところと感情を表に出す場面とのバランスがとれたらもっと良くなるのでは、というのが初見の感想でした。

そして、上記のようなポイントが観劇を重ねるごとにどんどん進化していったわけです!
もちろん真彩ちゃん目当てで観てはいるのですが、その回でしか観られないお芝居という点では、藤ヶ谷さんは本当に毎回新しい発見を与えてくださいました。複数回観劇の醍醐味を味わうことができてものすごく楽しかった。
具体的にどう変わったのかというと…当初“無”だった1幕が人間味を増していった印象です。

望海さんのドンジュアンって、とにかく鬼畜。私は映像でしか観たことがないので多分に偏った印象かもしれませんが。
父親の亡骸を目の前にした騎士団長の娘にキスして、必死に男たちと絡み合うエルヴィラを嗤いながら酒を飲んで、高笑いのプロ(?)の真骨頂といわんばかりに 嘲るような笑い声を響かせる。
これは男役である望海さんだから成立したドンジュアン像であって、リアル男性がやったら 虚構の世界とはいえ、嫌悪感や拒否感が先にきてしまう観客が少なからずいるでしょう。
望海さんとは違う役づくりを追求した結果 藤ヶ谷さんがたどり着いたのが 無からのアプローチだと思うのですが、回を重ねるごとに感情や欲がどんどん表に出てきました。
きっと大阪初日の直後に観た人と今観る人とでは全く違う印象を受けると思います。

騎士団長との決闘に臨むときの酷薄な笑みと瞳の輝き、殺した後の嘲るような笑い、バカにしたようなエルヴィラへのあしらい方、縋ってくる女性への舌打ち。
父ドンルイに肩を抱いて諭されるときに見せるたじろぎ、家長である父の椅子を前にしてしばし躊躇いながらも腰を下ろす様子、「母上…」と呟く瞳に一瞬宿る純粋な光。
根底に冷たさを感じさせながらも繊細になっていく藤ヶ谷さんの表情、ものすごく観察し甲斐がありました。
表情だけでなくセリフ回しも自然さが増していって、特にマリアとの出会いの場面はやや単調になりがちだったのが 間のとり方や抑揚で感情の動きがより伝わってくるようになったなと感じます。
声での表現も同様で、欲や怒りをぶつけるような場面で声が低くなったり がなりが多く入ったりするようになったことで、それ以外の場面との差が際立つ結果に。

一方で、マリアに出会ってからの変化は公演序盤から素晴らしかったなという記憶が。
意識的なのか 感覚でお芝居して自然にそうなっているのかわかりませんが、ライトが瞳に入ってすごくキラキラして見えるんですよね。
死にゆく瞬間もそういう目をしているときがあって、すごく印象的でした。

そしてもう一つ、「お芝居の歌」としての表現について。
ミュージカルならではの魅力であり難しさでもあるのが、歌で演技するということではないでしょうか。
個人的に、 お芝居の歌って技術だけでは絶対に成立しないものだと思っていて。
いくら音程が正しくて声量があってテクニックを兼ね備えた歌い手であっても、役として歌えていない、つまり役としての感情より 中の人 本人が見えてしまう役者は、お金を払って観に行く気になれません。

この観点から、私は雪組版を初めて観たときから「嫉妬」がこの作品で一番の難曲だと感じています。
美しく歌いあげるナンバーではなく、感情を爆発させるように歌う曲。
ただ技術があるだけの人が歌っても全く意味がないでしょう。
歌とセリフの中間、というぐらい思いっきり感情をぶつけていた望海さんの印象が強烈で、このナンバーをどうこなすのかというのも 藤ヶ谷さんのドンジュアンを観るにあたって自分の中で意識していたポイントでした。
そして実際に聴いた印象はというと、望海さんver.に慣れた耳にも違和感がありませんでした。
もちろん望海さんの歌い方をコピーしているわけではなく、純粋に藤ヶ谷ドンジュアンの感情が突き刺さってくる感覚。
「俺、ちゃんと歌えてるだろ?」要素はおろか、「音程合わせなきゃ」という意識すらみえない お芝居の歌として申し分ないパフォーマンスでした。
このナンバーを聴いて、藤ヶ谷さんが演じるドンジュアンを観られてよかったと心から思いました。

開幕前の取材で藤ヶ谷さんご自身が「直前のセリフとの境目を自然に…」ということをおっしゃっていましたが、それも十二分にクリアなさっていました。
特にAimerで昂る心の声が歌になった感じ、すごく良かったなと思います。
「君の父上からの伝言」の「気安く触るなよ~」が楽譜通り!のテンポではなく、適度に間をとった自然な歌い方になっていったのも印象的でした。

さらにピンポイントで好きなところを挙げるなら、悪の華~Du Plaisirの一連の流れですね。
悪の華で昂った感情そのままに、本能と欲に任せてDu Plaisirになだれ込むドンジュアンと 理性をかなぐり捨てるように歌い舞う酒場の男女。
これぞドンジュアン!という感覚を一番強く味わえるので、望海ドンジュアンを手っ取り早く摂取したいなと思ったときいつも観る場面でもあります。
藤ヶ谷さんはまず、Du Plaisirのr音をはっきり発音しているのがすごく私の好み。
望海さんがDu Plaisir終盤、バラをマイクさながらに持って「Ah~」というオブリガートを感情のままに歌っている感じが大好きなんですが、藤ヶ谷さんもどんどん理性0に近づいていったなという印象。
観劇のたびにこの一連の場面で過去最高を更新してくださるので、毎回楽しみで仕方なかったです。
あと、藤ヶ谷さんとは関係ないけど雪組版も今回も「今夜は誰を選ぶのかしら?」で一列になってポーズを決めていく女性陣に順番にライトが当たる演出が狂おしいぐらい好き。
ここを観てるときの私の脳を分析したらドーパミンとか幸せホルモンとかドバドバ出てたと思う。ほんとに最高でした。

あと、最後にとってつけるような感じになってしまって恐縮なのですが、当たり前にお顔がいいですよね(笑)
登場の瞬間から普通にかっこいいので むしろいちいち「イケメン!」とか思わないのですが、2幕のデュエットで真彩ちゃんにオペラでロックオンしているとき、視界に藤ヶ谷さんが入ってくると「整ったお顔立ちだなあ、鼻高いなあ」としみじみ…(笑)

外野の立場から無責任に言わせていただくなら、藤ヶ谷さんはこれからも舞台に立つべき方だと思います。
個人的には、他のミュージカルならどんな役を演じられるのかすごく興味があります。
この難役を演じきった藤ヶ谷さんなら、たいていの作品に挑める力があるはず。
性を想起させることが不可避なストーリーでありながら、ご本人がもつ清潔感によって色気はあふれつつも生々しくなりすぎず、マリアとの場面では宝塚さながらの夢々しさまで感じさせる美しさで非現実に浸らせてくれた藤ヶ谷さんのポテンシャルと技術は天晴れでした。
生田先生以外の演出家との化学反応もぜひ見てみたいものです。

真彩希帆さん

真彩ちゃんに関しては思いが強すぎて(怖)、好き!かわいい!うまい!に尽きる感じがありますが。
とりあえず、退団から半年でよくここまで持ってきたなというのが真っ先に抱いた感想です。
娘役としての歌い方をあれだけ磨いてきたのに、ミュージカル仕様の発声にスムーズにシフトしているのが衝撃でした。
宝塚時代の曲と比べるとキーが低めなのも逆に良かったのでしょうか?
音楽の天使たるポテンシャルを見せつけられた感があります。

今回追加されたソロ「愛が、呪い」、私は黒いドレス姿で歌うというレポを大阪初日に読んで フランス版の「Les Anges」という曲かなと思っていたんです。
マリア、エルヴィラ、イザベルの三人がファルセットで歌う讃美歌のような曲ですが、編曲してマリアが一人で歌う演出にしたのかなと。
ところが実際の原曲は「Tristesa Andalucia」。もはや女声のナンバーじゃないっていう…
これは、私が生田先生をナメていたっていうことに尽きます。
だって、大劇場お披露目で葛藤と焦燥という伝説の神曲にして超絶難曲を歌わせて、サヨナラ公演では誰も予想していなかったであろうラップをやらせた先生ですもの。
いくら高音が続く聴きごたえのある曲であっても、真彩ちゃんが美しいファルセットを響かせることが聴く前からわかっちゃうようなナンバーを外部初舞台でやらせるわけがないと気づくべきでした。
この曲を聴いて、先生が真彩ちゃんに課したハードルだと感じると同時に、(特に初めて真彩ちゃんを見る)観客に対する「これが私のミューズです、ただ者じゃないでしょう」という先生のドヤ顔が目に浮かびました(笑)
でも私も同じ気持ち。毎回、「たとえ命が枯れても」の叫ぶような歌声に震えながら「私の音楽の天使、すごいでしょ!!」って誇らしくてたまらなかったです(私はただファンなだけで、自慢できるような立場では全くないんだけど)。

最後のこのソロに持ってかれちゃう感はありますが、「彼を愛している」も素晴らしいですね。
裸足で舞台のセンターに一人立って愛を歌いあげる真彩ちゃんの輝かしさ美しさといったら…心が浄化される歌声です。
低音でも、太いというより軽やかにささやいているような響きになるのはどういうテクニックなんでしょう?完全にプリンセスですよね。
どの曲でも語るように表情をつけて歌えるという「明らかに正しい技術、徹底した基礎によって裏付けられた表現力、芸術」は健在ですが、生田先生がおっしゃっていた「とても情報量の多い声の持ち主」をひときわ実感したのは、Changerの「咲き誇るバラのように 世界が愛に染まる」かな。
歌詞のとおり、周りに花が開くのが目に浮かぶようで鳥肌が立ちました。

お芝居も、宝塚時代の経験は伊達じゃないな、やっぱり地力があるよな~としみじみ。
トップコンビのように相手役さんとじっくりセッションして演技プランを立てていくお稽古をしたのかはわかりませんが、ドンジュアンとマリアの出会いの場面は一歩間違えたら「は?」ってなりそうなマリアのセリフを絶妙な匙加減でうまくやっていてすごいです。
タメや笑い方一つとっても、本当に絶妙。
さすが望海さんに鍛えられただけあります。

あと、忘れてはいけないのがビジュアルの完成度の高さ!
第一に衣装がどれも素敵。さすが有村先生です。
2幕は終盤の黒ドレス以外ずっとお腹が出ているデザインなので開幕当初はとにかくファンがざわついてましたが(笑)、退団して間もない今だからこそ、先生方が華奢できれいな体型を見てほしかったのかな。
シルクロード千夜一夜での衣装について真彩ちゃんがカフェブレで「(お腹)あんまり出てないんですけどね」と話していたのを聞いた生田先生が「じゃあもう一息いこう!」って考えた可能性もあり?(たぶん違う)
実際は骨格ナチュラルだとご本人がおっしゃっているけど、初見の方がウェーブ?って言うくらいほっそいですもんね…
2幕冒頭やカテコで着ているエメラルドグリーンのドレスは、アンサンブルさんが深い赤を基調とした衣装なので補色で目立ちます。しかも雪組カラー!先生の愛を感じる。
衣装だけでなく鬘とメイクも100点満点のかわいさ。鬘は宝塚時代と同じくご本人が考えたのかスタッフさんによるものなのかわかりませんが、よく似合っているし凝ったデザインで見とれてしまいます。
メイクは、間違いなく宝塚時代から磨かれた自己プロデュース力の成果。
どこから見ても、どの場面も本当にきれいでかわいい!!

あまり踊ってはいませんが、「何かが変わり始めている」でソロがあるのが嬉しい。
舞台を踏み鳴らすフラメンコの振り付けを華麗に踊っているのを見て、20世紀号のときにタップに苦手意識があるみたい、と望海さんにバラされていたのを懐かしく思い出しました。
望海さんの舞台を観たときもそうですけど、どこまでもだいきほの亡霊なんですよね…
でもそれとは関係なく、娘役でも望海さんの相手役でもない真彩ちゃんの魅力を今回堪能することができました。

平間壮一さん

平間さんは体幹だったりスタミナだったり、とにかくフィジカルのポテンシャルがすごい!
男性キャストの中ではひときわ細身で小柄にさえ見えるのに、とんでもない強靭さに驚かされました。
やはりハイライトは「マリア」かなと。
あれだけ殴ったり殴られたり、果ては転がりながら歌っても音程がブレない。
しかもこの場面の立ち回り、私の勘違いでなければ、毎回同じ動きではなく公演ごとにその場で生まれた流れで皆さん動いてますよね?
平間さんがやられっぱなしのときもあれば、周囲の男性を殴りまくってるときもあり…
技術や体力だけでなく、カンパニー全体にお互いへの信頼がなければ成立しないと思います。

ドンジュアンとの決闘も。
歌いまくった後に激しい殺陣をこなしてまたソロを歌う藤ヶ谷さんも相当ですが、やられる立場の平間さんは倒れたりうめいたり、また違ったキツさがあるはず。
1階席前方で観ていると思わず息を呑んでしまうぐらい、臨場感と迫力溢れる場面でした。

雪組版でマリアに彫刻家を辞めるよう迫るモラハラ野郎だったラファエルが 2021版では(仕事に打ち込む彼女の様子が不本意だという素振りは見せつつも)そういったことをセリフとしてはっきり口にしていない点は、最大の改変の一つ。
ラファエルが結婚すると宣言した後、マリアは「戦場なのよ、何があるかわからないわ」と水を差すようなことを言ったり、仲間たちと盛り上がるのをよそに 近くにあった石を抱いて作品のアイデアを膨らませるような素振りを見せたりします。
自分より仕事に夢中なんじゃないかと思わせるような彼女の態度を見ても平間ラファエルが自分の感情を抑えている様子が印象的でした。
そういう彼の優しさ、穏やかさのようなものが現れていたのが戦場のシーン。
ひとこラファエルは殺された味方を見て狂気じみた様子で敵に向かっていくのに対し、平間ラファエルは死んでいく仲間たちに呆然としている。
そんな人物像だからこそ、マリアとドンジュアンの関係を知った後の怒りや嫉妬の爆発が強烈に印象づけられます。
また、ドンジュアンやマリアよりも私たちに近い“普通”の人だと感じさせられるだけに、「人は、何故」で歌う「一人の女を愛しただけなのに」の悲痛さ、切なさも 雪組版より胸に迫ってくる感じがありました。

あからさまに結婚に乗り気でないマリアの態度に、ドンジュアンと愛し合う彼女を見る前から 本当に自分を愛しているのか疑ったり不安に感じたりする気持ちがラファエルにはあったはず。
決闘に向かう表情も、ドンジュアンが嫉妬と怒りに駆られているのに対して ラファエルからは悲壮という印象を強く受けます。
どう転んでも、マリアと自分が再び結ばれることはない。
自分に勝ち目がないこともわかっていたでしょう。
「彼女と生きることだけが俺の望みだった」のに叶わないなら、せめて自分の姿をマリアの目に焼きつけ、決闘を見守る人々に 彼女を愛した事実の証人になってほしかったのかなと想像します。
雪組版ではラファエルのモラハラ&性別役割分業的発言が気分悪くて(生田先生にもひとこちゃんにも当然非はありません)、ドンジュアンになくてラファエルにあるものが愛っていうのが納得できなかったんですよね。
ラファエルだってマリアの感情は無視で自分の所有物にしたいだけじゃん!?と思ってしまって(劇場で観ていたら違う印象だったかもしれませんが)
でも、マリアがマッチングする相手がラファエルではなかっただけで 彼の愛は確かなものだったと平間さんのラファエルからは感じることができて、ラストの展開の見え方が大きく変わりました。

上口耕平さん

ドンジュアンや酒場に集う男女の中に一人立っていても飲み込まれない佇まい、あのTHE・貴族な扮装が似合う端正な雰囲気
上口さんのカルロを象徴しているなと感じるのが、ドンルイにお辞儀する所作のエレガントな美しさ!
このお辞儀は1幕でやっているのがわかりやすいですが(カルロを皮肉るように、ドンジュアンはふざけた仕草でドンルイにお辞儀して去るんですよね)、2幕の「誰に対しても情けはかけない」でドンルイが登場したときもさりげなくやっていて、ひそかな見どころです。

そのうえさらに、安定感のあるお芝居と歌声。
私はDVD収録があった10/25の公演を観劇したのですが、緊張感からか いつもはないようなミスがちょこちょこ見受けられるなか、揺るぎない上口さんのカルロの存在が舞台全体の集中力を引き上げているのを感じました。

上口さんのカルロには咲ちゃんと比べて陰の魅力を色濃く感じますし、咲ちゃんカルロってドンジュアン(というより望海さん?)への愛がめちゃめちゃ重かったんだなあ…って思います。
ドンジュアンに捨てられたエルヴィラを案じるような言動はもちろんありますが、結局は一番にドンジュアンを思って案じているのが咲ちゃんのカルロ。
それに対して、上口さんは「憎んでいないといえば嘘になる ただそれ以上に愛してもいた」という歌詞がしっくりくる、まさに愛憎入り乱れる思いをドンジュアンに抱いている印象(咲ちゃんカルロは、憎しみなんてせいぜい5%ぐらいしかなさそう。ひたすらに圧倒的愛)。

この対比が明確に表れているのが、「行かないで」の前にイザベルがカルロにかけるセリフ。
雪組版は「あなたのため?彼女のため?…それとも彼のため?」
2021版は「あなたのため?彼のため?…それとも彼女のため?」
イザベルがこの後のセリフで言うように、最後にいくほど核心をついているわけですから、カルロにとっての優先順位は
雪組版:ドンジュアン>エルヴィラ
2021版:エルヴィラ>ドンジュアン
になるということですよね。
悪の華の振付といい、雪組版でのドンジュアンとカルロの関係性は宝塚だからなのか のぞさきだからなのか生田先生にじっくり話を聞きたいところです、ほんとに。
藤ヶ谷さんと上口さんの距離感がたぶん“正常”ですもんね…

上記の「陰の魅力」とはどういうことかというと、上口さんのカルロにはドンジュアンへの屈折した愛を感じるんです。
例えば、アンダルシアの美女に渡そうとしたバラを受け取ってもらえないドンジュアンを嗤ったり。
はたまた、Du Plaisirで快楽と欲に溺れるドンジュアンを嗤ったり。
ドンジュアンの悪徳さゆえに純粋に彼を愛するだけではいられないのが咲ちゃんカルロ、反対に彼を憎みたい気持ちがあっても憎みきれないのが上口カルロなのかなと。

天翔愛さん

天翔さんの声、「純粋無垢なためにドンジュアンに騙された良いお家柄の娘」という設定がぴったりハマります。
くらっちのエルヴィラは 理知的で誇り高い女性が初めて味わわされた屈辱によって理性を失ったゆえの狂気、天翔さんのエルヴィラは 蝶よ花よと育てられた箱入り娘が初めて思い通りにならないことを経験した衝撃ゆえの狂気。
作品に登場する他の女性たちと比べると幼さを強く感じるからこそ、「望むならば」や「ドン・ルイとエルヴィラの諍い」の 激情に身を任せて後先考えず突っ走ってしまう感じがリアルだなと。

さりげないシーンだけどこの“お嬢様感”を強く印象づけられるのが、カルロに「お父様とお話させてください」という場面。
思いっきり顔を寄せていて、距離感の近さにエッてなるんですよね。
良く言えば無垢、悪く言えばナチュラルに常識外れなところを出しているのかなと感じました。

技術的には、歌でもセリフでも感情に合わせて声色をシフトさせながら健闘していたなという印象。
特に公演期間序盤はやや音程が甘いなと思ったナンバーもありますが、その必死さがドンジュアンやドンルイに思いをぶつけるエルヴィラとリンクしていたせいか、個人的には大きなストレスを感じるほどではありませんでしたし東京に来てからはぐっとクオリティーが上がった印象です。
今の年齢で王道ヒロインではないこういう役柄を演じられたことは、今後のキャリアにきっとつながるのではないでしょうか。

吉野圭吾さん

この役を他の人がやるのは想像できない!というぐらいとにかく凄かったです。
セリフや歌なしでただ立っていたり踊っていたりするだけでも視線が引き寄せられてしまう。
決してメイクのせいだけじゃない圧倒的な存在感
吉野さんじゃなかったらこの世界観は成り立たないのではないでしょうか…

亡霊になった後のインパクトが強すぎますが、生前の場面でも特に印象的なところがあります。
ドンジュアンに目を斬りつけられて一瞬勢いを失ったのが、彼の腕の中にいる(かばっているわけではなくてむしろ盾にしているような感じですが)娘を見て、カッとなって再び向かっていくように見える。
詳しくは後述しますが、私は騎士団長と亡霊さんは全く別の人格(?)と捉えているので、わずかな時間で掛け声以外のセリフもない中、団長の人物像を想像させるような細かいお芝居がさすがだなと。

原作にあたるモリエールの戯曲では、ドンジュアンが死ぬラストシーンで騎士団長の亡霊が「時」(鎌を持った神だそう)の姿をしていると描写されています。
このミュージカルではずっと石像がモチーフのビジュアルですが、原作と同様に亡霊が時間を操っているんじゃないかと思わせられる場面が。
一番強く感じるのは、Aimerと戦場のシーンの間です。
実際の時系列はわかりませんが、亡霊さんが踏むタップが徐々に速くなっていくのがまさに時の経過を暗示しているようだなと。

歌もセリフも、音響でエコーをかけている効果もあると思いますが吉野さん独特の響きが幻惑的でこの役にドンピシャ。
「愛を知る時」なんて、ソロでたくさん歌った終盤に藤ヶ谷さんを持ちあげながら歌ってますからね…スタミナと安定感よ。
カテコの「何かが変わり始めている」では笑顔でステップを踏むお姿を拝見できて、本編とのギャップが嬉しいしほっとします。

ちなみに、原作でドンジュアンは落雷に打たれて命を落とすのですが、この作品で亡霊さんが現れる前後に雷鳴が轟くのは これが元ネタになっているんですね。
「愛が、呪い」の前に雨だれのような水音が入るのは、決闘(=落雷)の前兆という意味なのでしょうか…

上野水香さん

豪華すぎるキャスティング!よく天下の上野水香さんを引っ張ってきましたよね…
素晴らしいスタイルでたくさん人がいる酒場のシーンに出てきてもぱっと目を引きますし、セクシーを通り越して彫刻のように芸術的で美しい体型なので、エルヴィラはじめ他の女性たちとは一線を画す存在という印象を強く受けます。
エルヴィラが「こんなこともできるのよ」と直接的に男たちを誘惑しようとする横で、肝心のドンジュアンは洗練された身のこなしのアンダルシアの美女の髪を撫でたり腕に触れたり、どこか上品にいちゃついているのがなんとも皮肉。
でもセックスアピールでドンジュアンの興味を引くという意味では他の女性たちと同じで、それがマリアとの決定的な違いですね。

象徴的な演出だなと思うのが、Du Plaisir~アンダルシアの美女の場面でドンジュアンが持つ赤いバラ
このバラ、最初にアンダルシアの美女に差し出すも無視されてカルロに押しつけられ、アンダルシアの美女のナンバーの始まりで再度ドンジュアンが彼女に渡すと、受け取った後に投げ捨てられます。
これを回収したイザベルが「望むならば」の後アンダルシアの美女とハケていくドンジュアンに渡そうとしますが、彼は受け取らないまま去る。
つまり、結局ドンジュアンからアンダルシアの美女にバラが渡ることはありません
冒頭のシーンでカルロ・ドンルイ・イザベル・エルヴィラが持っているのも、ドンジュアンの死と共に降ってくるのも赤いバラ。
きっとこの作品における愛の象徴。
アンダルシアの美女もバラを与えられなかった女たちの一人であり、彼女もまた自ら受け取ろうとしないところを見ると、愛ではなく割り切った関係を求める ある意味ドンジュアンと同類の存在として描かれているように感じます。

彼女はカルロとイザベルが「行かないで」を歌っているときに再び出てきてソロで踊りますが、圧倒的な身体コントロール技術を感じる美しさにうっとり。
初見のとき、上野さんが出てくださったからにはできるだけ踊っていただきたいのはわかるけどストーリー展開的にドンジュアンほったらかしで一人なのは変じゃない?と思っていましたが、最後にちゃんとドンジュアンと絡むので違和感が払拭されるんですよね。
生田先生の演出の工夫もさすがです。

春野寿美礼さん

イザベルはドンジュアンを愛する女たちの一人ですが、マリアやエルヴィラとは違って どこか達観しているような彼女の言葉の重みに春野さんの声がマッチしています。
歌声はもはや言うまでもなく。
天から降り注ぐような真彩ちゃんの声とは違い、一音ごとに心に刺さるような太い芯を感じる声

美しくて強い春野さんのイザベル。
ドンジュアンと二人きりでやりとりする場面がないのに、春野さんの視線から二人の過去を想像させられます。
「愛してる!」と叫ぶマリアとも「私の夫」と主張するエルヴィラとも違う立ち位置。
でも、もしかしたら誰よりも長く強くドンジュアンへの愛を抱き続けているのは彼女なのでは?
「この身体に永久に焼きついた 一夜の思い出抱きながら」ずっと愛の牢獄に囚われているイザベルが容易に目に浮かぶほど、強い余韻が残っています。

鶴見辰吾さん

私はMIU404のオタクなので、1話限りのゲストとはいえ このドラマに出演した鶴見さんが今回いらっしゃるのが嬉しくて。
MIUで鶴見さんが演じた田辺さんは、息子の味方になりきれず死に追いやってしまった父親でした。
対するドンルイは、ただ一人の味方だと息子に伝えていたのに死にゆくのを止められなかった父親。
フィクションとはいえ、この対比を考えると人の世とは…としみじみしてしまいます。

あの衣装を身にまとって違和感がない存在感と威厳
父親として、家長としてドンジュアンを思い、態度や言葉の端々から強く愛情がにじみ出ている鶴見さんのドンルイ。
春野イザベルと同様に、若者たちとは違う視点からすべてを見通しているような 人としての深みを感じます。
細切れにしか登場しないのに、その数少ない場面からセリフや歌詞の裏側にある思いを想像させるお芝居はさすがの一言でした。

アンサンブルキャスト

お一人ずつに触れることはできませんが、ざっくりした感想を。
まず、雪組ファンはプロローグの女性アンサンブルを見てドレスのデザインや振付にシルクロードの砂たちを思い出したはず。
ここ、本当に役名が砂の女だそう!(ソースは小石川茉莉愛さんのインスタ)
生田先生、ブレませんね(笑)
演出の意図もおそらくシルクロードと同じで、「砂は人よりも長い時間そこにいてすべてを見てきた」ということを意識していると思われます。
でもシルクロードの砂たちが妖しくて儚い印象だったのに対し、戦場でラファエルたちを翻弄するドンジュアンの砂たちには強さと残酷さを強く感じます。
その他の場面も、男性も女性も情熱的で華麗で、個々の力量の高さを感じるキャストさんばかりでした。
この作品には必要不可欠な圧倒的な熱量で世界観をつくってくださった皆さんに拍手。

考察

ここからは特に重要なのではと思う考察ポイントを挙げていきます。
とにかくテーマが深い作品なので観る人によって印象も考えることも大きく変わると思いますが、私個人の見解として読んでいただければ。

亡霊の存在

亡霊がどういう存在なのかということが、この作品を考えるうえで最も重要な鍵であり最も答えを出すのが難しい問題だと思います。
私がヒントにしたのは、顔が右側はがっつり白塗りでメイクされているのに左側は肌の色が多めに見えているというビジュアル。
これは、亡霊の存在が一面的ではないことの表れなのではと考えました。
あと、「私の声が聞こえるのはお前一人だ、姿が見えるのもお前だけだ」というドンジュアンへのセリフ。
マリアもエルヴィラも声聞いてるじゃん!と突っ込みたくなるところですが、生田先生がそれに気づいていないなんてことはないはず。
つまり、二人が聞いたのは「亡霊」の声ではない。
マリアはいつも像を彫るときと同じように石の声を聞いていると思っているでしょうし、エルヴィラには亡霊の声どころか天啓のように聞こえたでしょう。

では、ドンジュアンにとっての亡霊とは何なのか。
これも場面ごとに異なる解釈が要されるように思います。
1幕では「亡霊」という役名のとおり罪を犯したドンジュアンにとり憑いた呪いの声ととれますが、騎士団長その人の声なのかというと違うような。
亡霊が咎めるドンジュアンの罪とは、団長を殺したことではなく 周囲から向けられる愛を踏みにじり続けていることだと感じるからです。
では誰の声かというと、何の捻りもないですが「神」ではないでしょうか。
でも自分のことを「神が棄てた」と言い、「聖書に唾吐く」彼には 自分を呪っているであろう騎士団長の姿として亡霊が見えた。
典型的な無信教の日本人である私にはキリスト教的価値観は想像することしかできませんが、神って結局は人の心が生むものだと思うのです。
だから、愛を知って生まれ変わり、それぞれ別の道を行くと亡霊に告げられた後のドンジュアンが聞く声は 心の中にいるもう一人の彼なのでは。

例えば、「誰に対しても情けはかけない」での演出。冒頭で亡霊がドンジュアンに剣を渡し、その後ドンルイがその剣で亡霊を刺します。
これは、亡霊がドンジュアンの心(の中の悪や憎悪)と一体になっていることの現れと解釈して良いはず(ちなみにドンルイに刺された後、亡霊は少し体勢を崩しますがすぐに元通りになって悠然と剣を抜きます)。
さらに、この曲ではドンジュアンと亡霊がユニゾンで歌うパートも。

そしてラストシーン。
人々がドンジュアンの亡骸を起こすと、亡霊がドンジュアンにぴったり重なるように正面に立ち、その後亡霊が上手側に移動して二人がまったく同じ体勢で横に並びます。
二人が一心同体という印象を強く受ける演出。
一番最後は亡霊がドンジュアンの身体をなぞるように手をかざして彼は再び目を開け、亡霊と共に光が満ちる舞台の奥へ去っていく…
ドンジュアンを殺したのも救ったのも結局彼自身なんだなと感じさせられます。

キリスト教的世界観の反映

ドンジュアンが聞いた亡霊の声は神の声だったのではないかと書きましたが、それ以外にもキリスト教的世界観を感じさせる演出がこの作品には多くあります。
雪組版よりもさらに強調されて何度も出てくるのが「蛇」というワード。
これは当然、アダムとイブの逸話からきているものですよね。
また、直接的なセリフとしてはマリア・マグダレーナという言葉も。

マリアはドンジュアンとの出会いの場面で最初に石像の顔に頬を寄せます(真彩ちゃんが 佐野藍さんのアトリエにて同じような構図で撮った写真を投稿してくれています)が、2幕でも同様に眠るドンジュアンに頬を寄せます。
彼女の名のとおり、聖母子像さながらの画。
真彩ちゃんの表情がなんとも神々しかったのが印象的です。
そして彼女が大の字に倒れた状態で亡くなったドンジュアンを起こし、口づける姿はピエタのよう。
また、両手を広げ項垂れた状態で人々に担がれるドンジュアンの亡骸は 十字架にかけられたキリストの姿を想起させます。
これは彼が悪と憎悪に満ちた己を殺すことで許され、救いを得た象徴なのでしょうか。

名前の意味、ドンジュアンにとっての「愛」

2021版を観て初めて、この作品における名前の意味を考えました。
きっかけになったのは、「石の像」でマリアが何度も呼ぶドンジュアンの名
これを歌う真彩ちゃんの声の深い響きに心臓をつかまれたような感覚になって、明らかになんらかの意図があるであろうこの発声について考えずにはいられなくなったのです。
この作品のソロでもデュエットでも、低音から高音まで美しい真彩ちゃんの歌声に心震える感覚は何度も味わいましたが、私にとって一番衝撃的だったのはこの「ドンジュアン」の声でした。
ではここでマリアがドンジュアンの名を呼ぶ意味とは、と考えたときに思い至ったのが「俺の名は」
どうして今まで何も考えずに聞いてたんだろうと思うぐらい、1幕冒頭からドンジュアンの名が特別であることが描かれていたじゃないかと パラダイムシフトが起きたような感覚になりました。

ドンジュアンの名は、それを呼ぶ者の心に彼の存在を埋めこむ 魔法のようであり呪いのようでもある。
知らず知らずのうちに彼の存在を意識していた(これの詳細は後述)マリアは、名を呼ぶことで彼の運命を自分の運命に結びつけた(やたらポエムですが、マリアのソロのフランス版にこういう歌詞があるんです)。
そして、ドンジュアンにマリアが自分の名を告げたとき、二人は完全に愛=呪いにとらわれたというのが私なりの解釈です。

一方、ドンジュアンが呼ぶ他人の名にも意味があると考えます。
とはいえ、私の記憶が正しければ彼はほとんどマリアの名しか呼ばないんですよ。
数少ない例外が、「セビリアの恋人たち」のマリアを探してるシーンでのカルロへの呼びかけ。
そして、「母上…」という呟き。

雪組版と違い、今回は少年ドンジュアンも彼の母も登場しません。
雪組版では
・KAAT版:少年ドンジュアンが母と関係をもち、それがきっかけで母は自殺
・映像に残っているDC版:少年ドンジュアンに神の教えを説いた母の病死
が回想として描かれ、この体験が彼の屈折を生んだことを想像させます。
特に演出が変更される前のKAAT版は「知らなかった 愛と欲の違いすらも」というAimerの歌詞と直接的につながりますし、悪の華の「神が棄てた 俺を」という歌詞も単にまともな生き方をしていないという程度ではなく、近親相姦の罪が背景にあるとすればその重みがぐんと増す感があります。
DC版では少し違う解釈が要されますが、信心深かった母の命を救わなかった神への信仰を棄てたことが ドンジュアンのあの生き方を生んだのかなと。
では、2021版のドンジュアンと母の関係はどう捉えるべきか。
ドンルイの「(母を)覚えているかな」というセリフの解釈が難しいところですが、物心がつくかつかないかのうちに母が亡くなったために 愛情を注がれたという認識がないまま育ったという背景があるのかなと感じました。
名門貴族の家長である父ドンルイは直接幼いドンジュアンの養育をし、愛を与えるような存在ではなく、その過去への後悔が「私だけがお前の味方なのだ」に繋がると想像しています。
望海ドンジュアンは愛を棄てた男、藤ヶ谷ドンジュアンは愛を知らない男。
話が戻りますが、つまりドンジュアンにとっては名前を呼ぶ=愛情表現なのではないでしょうか。
Aimerで「君の名前を刻んだ 俺の胸に強く深く」という歌詞があるのは(ここ、雪組版では胸ではなく「肌の上」ですよね。ナイス改変)まさにその象徴だと思っています。
それにしても、ファントムのエリックといい、母との関係が拗れを生む展開ほんとに多いですね…

マリアの描き方、ドンジュアンとマリアの関係

生田先生は今回「人格が描かれていない」フランス版とは全く違う形でマリアという役を演出しました。
聖女でも、ドンジュアンとラファエルを惑わすファムファタールでもない。
この描き方に、シルクロードで真彩ちゃんが演じたホープダイヤを思い出しました。
先生はあの作品で“奪われる”“愛される”存在としてだけでなく、時に自らに仇なす人々を“殲滅する”自ら所有者を“選ぶ”存在としてホープダイヤを描いた。
今回も、マリアは二人に“愛される”ドンジュアンの愛の呪いに“巻き込まれる”だけでなく、自らドンジュアンを“愛する”その愛によってドンジュアンを呪いに“繋ぎとめる”存在でした。
一見対照的にみえる聖女崇拝と悪女扱いは どちらも根本的にはミソジニーであるといわれますが、生田先生はマリアを記号ではなく ちゃんと人間として作品に存在させてくれた。

マリアはドンジュアンに「住んでる世界が違う」と言いますが、1幕でドンジュアンがいるのは男女が酒場に集い激しく求め合う本能と欲の世界、「血濡れた悪徳の街」としてのセビリアでした。
一方、マリアがいるのは兵士たちが厳しい訓練に耐え、恋人たちが互いを一途に想う理性と秩序の世界(兵士たちの帰還の場面で、マリアに迎えられなかったラファエルとは対照的に 再会できたカップルが描かれています)。
そんな世界にあって、マリアはラファエルという恋人がいながら「狂おし」い愛を潜在的に求めていたように感じます。
ドンジュアンの噂を耳にした彼女は、本能と欲の赴くまま生きる 顔も知らない彼に興味をもち、規範や道徳に縛られないその生き様に(無意識に)惹かれていたのかもしれません。
だからこそ、「石の像」で石像に語りかけているはずなのにドンジュアンの名を何度も呼ぶのでしょう。

石像を前にしたドンジュアンにマリアは「思ったまま、本能に従えばいいのよ」と言いますが、彼女が石に向けていた本能や愛が ドンジュアンと出会ってからは彼に向かうようになった。
「何かが変わり始めている」でマリアが情熱を解き放つようにソロで踊るのは、ドンジュアンがいた本能と欲の世界に足を踏み入れたことを表現しているように思います。
そして、このときソロを歌っているドンジュアンが抱く赤ちゃんは、おそらく 愛を知って生まれ変わった彼自身を表している。

2021版では1幕ラスト、マリアが迷うように石像(と亡霊)に手を伸ばしますが背を向け、自分からドンジュアンに抱きつきます。
今回、騎士団長の石像がラファエルにとって マリアが待つ故郷の象徴であることが強調されていますが、その像に背を向けることで、彼女はあの瞬間完全にそれまでの自分から「変わった」。
マリアがドンジュアンを愛するのは彼女自身の意思なのか、亡霊に選ばれた結果なのかというのが雪組版を観ても自分の中で答えが出せなかった問いの一つでしたが、この演出は亡霊が導いたからではなく 彼女が自らドンジュアンを愛すると決めたことを表現しているはず。

なぜ仕事熱心だったマリアが石像を中途半端な状態で放り出したのかという疑問の感想を目にしたのですが、彼女は決して仕事に生きていたわけではなく、行き場のない情熱の炎をぶつける相手が石しかなかっただけなのではないでしょうか。
だから2幕以降 彼女が石に向き合う姿が描かれなくなったのは私にとってはごく自然なことに感じられますし、おそらくラファエル戦死の報を受け取ったことで 彼の帰還の象徴である石像を完成させる意味も彼女の中で薄れてしまったのではないでしょうか。
こういう風に表現すると彼女は実に身勝手で、その愛が招いた結末を思えば破滅的でさえあります。
でも、それこそが2021版のマリアが「蛇に噛まれた」一人の人間であるということ。
二人以外の人たちがどうなっても、自分は彼への愛を貫きたいのだという彼女の欲の象徴がラファエルを前にしてドンジュアンに歌う「昔の恋なのよ 今愛してるのはあなた一人だけなの」であり、ドンジュアンへの思いを叫ぶ「愛が、呪い」なのだと感じます。

ドンジュアンとマリア、ラファエルとマリアの関係の違いを表しているのかなと思ったのが「手を引いてハケる」演出。
訓練後の場面でラファエルがマリアの手を引いてハケますが、ドンジュアンとマリアの場合は「何かが変わり始めている」でドンジュアンがマリアの手を引き、「セビリアの恋人たち」ではマリアがドンジュアンの手を引きます。
ラファエル→マリアの一方通行、ドンジュアン↔マリアの相互に通じ合った愛の対比なのかなと。

私はドンジュアンとの出会いがなくても、思いの熱量のズレが重なってラファエルとマリアはいずれ破局を迎えていただろうと感じているのですが、ではラファエルが本当に戦死していたらドンジュアンとマリアはずっと幸せに二人でいられたのかというと それにも疑問を呈したくなります。
ドンジュアンはChangerで「俺の本当の姿を映し出した」とマリアに歌いますが、それは彼の都合のいい思い込みだと思うのです。
マリアに出会う前の彼もまた本当の姿であり、彼女は「よくない話も何をしてきたかも みんな知ってるわ」と言うけど 本当の意味では知らなかった。
彼女の制止に耳を貸さず ラファエルへの嫉妬と憎しみに突き動かされるドンジュアンの姿に怯えと戸惑いを見せるマリアの表情を見ると、それがよくわかります。
マリアが言うとおり、確かに彼は彼女の出会いで「変わった」ように見えた。
でもそれ以前の「ひどい生き方をしてきた」彼が完全に消えてなくなったわけではなく、だからこそそんな彼自身を殺すためにラファエルに自らを刺させた。
仮にラファエルが帰ってこなかったとしても、きっと「悪徳の限りを尽くす」ドンジュアンはいつか再び顔を出したはず。
そのとき、自分と出会う以前の姿も含めて本当の彼を知ったマリアが それまでと同じように彼を愛することができたでしょうか?

雪組版と今回では、ドンジュアンの死の場面にも大きな違いがあります。
マリアの腕の中で息絶える雪組版に対し、2021版ではドンジュアンは駆け寄ろうとするマリアをとどめて一人で死んでいく
これは、真彩マリアが ドンルイの言葉を引用すれば ドンジュアンを救うことも、苦しみを分かつこともなかったからだと思います。
2021版で最後にマリアがドンジュアンの剣を捧げ持っているのは、彼女に出会う前の彼も受け入れて愛することの象徴のよう。
でもこれは彼が剣を手放し、悪と憎悪に満ちた自分を殺した結果であって、彼が勝利していたら マリアが彼のすべてを愛することはできなかったのではないでしょうか。

みちるマリアがドンジュアンの死の引き金になったという十字架をずっと背負って生きていきそうなのに対して、真彩マリアは彼との愛の記憶を抱きつつ未来を見据えて進んでいきそう(わかる人にしかわからない比喩で申し訳ないですが、ラストの真彩ちゃんは2018タカスペ「いのち」のときみたいな顔してるんですよね)。
だから個人的には、真彩マリアが1幕冒頭でドンジュアンを回想する四人の中にいないことがしっくりくるんです。
きっと彼女はこのとき「どこか遠く」(藤ヶ谷さんのこのセリフの言い方がすごく好き)で生きているのでしょう。
一人かもしれないし、新たに愛する人に巡り会っているかもしれない。
私の中の真彩マリアはこういう女性です。


まだまだ書きそびれていることがたくさんある気がしますが、長々と語ってしまったのでここで締めます。
真彩ちゃんが出ている場面はロックオンしていたせいで全体的に見落としている演出もたくさんあるでしょうし、円盤が発売されてからじっくり確認したいところです。
公演に通って熱演を堪能し、作品を考察するという fff/シルクロード以来の充実した観劇体験を与えてくださった2021ドンジュアンのスタッフ、キャストの皆さまに心から感謝です。

我々真彩希帆さまファンには、この作品の大楽を終えるとすぐにDSの配信が待ってますね!
素のキュートな天使ぶりを拝めると思うとわくわくが止まりません。
再びミュージカルで拝見できるのは年明け以降になりますが、宝塚時代からのファンもドンジュアン堕ちの方々も、帝劇・梅芸・博多座へ 音楽の天使の歌声を浴びに行きましょう!
マリアとはがらりと違う役柄になるとのことで、真彩ちゃんの新たな一面を見られるのが楽しみです。

SPERO 9/30マチネ感想

8月上旬に始まり、途中お休みを挟みつつも2ヶ月間 日々のアドリブや三者三様の素晴らしいゲスト様の登場で楽しみをくれたSPERO。
配信のおかげで4パターンとも観ることができましたが、何度観ても飽きない大好きな公演でした。
望海さんの第2章が こんなふうにご本人もファンも全力で楽しかった、幸せだったといえるスタートをきれたことが嬉しいです。

無事に大楽を迎え、すでに今さら感が否めませんが備忘録とするためにも1週間前にKAATで観た通常回について感想を書いておきます。
この公演は三井住友カードの貸切!ということで、望海さんのファンにはお馴染みのアドリブ炸裂回でございました☺️

前回の記事でセトリが重複している曲について書いているので、通常回だけの曲がメインの感想です。
また、終演直後にメモを残さなかったところは記憶が曖昧になっていますが、アドリブやトークについてもできる限り記録しておきます。


まずはシネマコーナー。

「この国に生きて」の後の村井スタッフとのやりとりはこんな感じでした。

村井「お疲れ様でしたー!お衣装、三井住友カードって感じの色ですね」
望海「そうでしょ?今日のためにあつらえたの」
村井「中身はプラチナム!ですね」
望海「ありがとう笑」

あっ!と思ったのは、ライムライトから引用したセリフのくだり。
かつての恋人の口調を再現するようにセリフを言う前、タバコを吸う仕草がプラスされていました。
皆さんのレポを見た限り、KAATからの変更のようですね。
カサブランカで 望海さん女声にシフトした柔らかな発声もきれいだな~とうっとりしているところで突然男役の色香ただよう顔をするんだから罪深い…

シャレードは、前回観たときより「燃えるキス」のキザった男役感が抜けているように感じました。
とはいえ、この曲に限らず表情管理が時々男役モード(銀橋で歌ってるときのキメ顔みたいな顔)になるのが愛おしいんですよねえ😌


リボンちゃんには三井住友カードで(`・ω・´)キリッ」とコーヒーのお会計。

そして、「愛した日々に偽りはない」の前はこんなトークを。

村井「そういえば望海さんって女優さんにならなかったら何になりたかったんですか?」
望海「キャトルレーヴのお姉さん!(即答)
キャトルレーヴって知ってる?宝塚のグッズショップなんだけど…」
村井「じゃあどっちにしろ宝塚には関わりたかったんですね」
望海「だってジェンヌさんに会えるかもしれないでしょ!?」
村井「笑…それではプラチナムな歌声をお願いいたします!」

歌い終わりにはこの続きで、

「先ほどお話したように、私キャトルレーヴで働きたかったんです….
キャトルレーヴご存知ない方はすみません、宝塚の劇場にはみんなあるショップなんですけど宝塚のグッズしか売っていなくて(客席笑)
宝塚の曲しかかかっていないし、DVDの宣伝のためにずっと宝塚の映像が流れてるんですよ! そんな夢のような環境で働けるのか!と思って!!
10代で宝塚に出会ってしまったのでそれ一色だったんですよね、子どもってそういうところあるじゃないですか!…私だけかな?(客席笑)
でも無事に音楽学校に合格して、こうやって舞台に立てていることが幸せです」

とお話されていました。

ジャズコーナーでのゴSPEROーズの自己紹介では、

大月さん:音楽学校のおもしろいクラシックバレエの先生のエピソード
(ピルエットの練習するときに「三井!住友!カード!」って掛け声をかけたり、10月に「もうクリスマスだね!」とか5月に「もう予科生入ってきちゃうよ!」とか季節感が早かったり)

山崎さん:昨日の公演で仲違いしてしまった村井さんと仲直りしました!というお話。
お二人は血液型など共通点がいろいろあるそうなんですが、同じ7月生まれなのに星座は違うらしい(笑)

村井さん:いつも険悪な感じになってしまうけど、山崎さんのことは目に入れても痛くないくらいかわいい!そうです
(そういうコーナーなのこれ!?とガールズ3人につっこまれてました)

工藤さん:先ほどの望海さんのキャトルトークに関連して、袖で大月さんから「あやちゃんの在団中にキャトルでブロマイド買ったんだ!」というお話を聞いたとのこと。

さて、ミュージカルコーナー。
ゴSPEROーズとG-SPEROケッツの皆さんがテーブルとイスを片付けるくだりとか、ゲスト回とはあんなに構成違うんですね!
9/26の配信で初めて知ったときは嬉しいサプライズでした。

Mamma Mia
歌い始めから4人のわちゃわちゃがかわいい!
スクリーンに映る貴重な稽古場映像に目がいってしまうのですが、その映像もずっと流れているわけではなくちゃんとゴSPEROーズの皆さんに集中できる構成に愛を感じます。
そして、音響が調整されていることもあると思うのですが、望海さんが入ってきたときの歌声の制圧力ときたら!ほんとパワフルでびっくりします。
この曲は楽しくてテンション上がりますね。ゲスト回でカットされてしまっていたのがもったいない!

そばにいて
”あの曲”と望海さんご本人が強調するほど、在団中から多くのファンからリクエストされていたであろう曲。
Changerと同じく いつか生で聴くことが夢だったので、叶えてくださった望海さんのファン心理把握能力に心から感謝。
CDも男役の発声というよりは自然な柔らかい歌声なので、Changerのようにガラッと違う雰囲気になったという感じはしないのですが、今回高音域も鍛えたことでファルセットがよりパワフルになったかなという印象。
そして私は、相変わらず 次はこの曲を歌う望海さんの隣に真彩ちゃんがいてほしいなと願っています。
どうしても歌詞にだいきほを重ねてしまう…

あんな人が
やはり望海さんの歌声にはワイルドホーン楽曲がよく合います。
伸びやかなメロディーを徐々にボルテージを上げながら情感たっぷりに歌い上げる姿、まさに真骨頂!という感じですよね。
恋する女性のキラキラした表情で歌っているのもとても綺麗で、なんだか感慨深くて。
最後の強弱を抑えたロングトーンもぶれずに安定感があって、新たなステージへの旅立ちを一際強く実感した1曲でした。

Dream GIrlsに参加したいボーイズのくだり、この日はお二人とも前日(?)にガールズに指摘された通り、キラキラのアクセサリーをたくさん身につけて登場。
やる気満々でしたが、マイクスタンドがない!ということで追い返されていました(笑)
「スタンド買ってきて、三井住友カード」とタイミングを逃さず望海さんのアドリブも炸裂。

Dream Girlsの後は こんなに高音たくさん使う曲を立て続けに歌って、まだあるの!?望海さんとはいえ大丈夫?って毎回思ってしまうんですが、そのたびに星金も最高だからやっぱり望海さんすごい…ってなる。
いいかげん望海さんの底なしの体力とポテンシャルに慣れなよ、と自分でも思います(笑)

J-popコーナーも、特筆すべきことを覚えている曲のみいきます。

このコンサートのハイライトは観た人によっていろいろだと思うんですが、個人的にはその筆頭は月光かなと思っていて。
素晴らしいエアリアルが繰り広げられていることはわかっているんですが、劇場で観た2回はどちらも望海さんの表情をオペラでガン見してしまいました。
ミュージカルナンバーのように歌声にも表情にもストーリーを感じるんですもの。
この回は、「効かない薬」で嘲るように口角を上げてから悟りきって諦めたような笑みを浮かべたのが強烈に印象に残りました。
なのでその後の配信2回でもここは注目していたんですが、特にそういう顔はしていなかったような…?はっきり覚えていないのですが。
やっぱり舞台はナマモノなんだな、と感じた次第です(あなたはイキモノ)
あと、ラスサビで左手を耳のあたりに上げる仕草にハイリゲンシュタットを連想したのは私だけではないはず。

そして全体的に、大阪で観たときよりアレンジが複雑で難しくなってる!というのも印象的でした。
Chicago、Misty、街の灯り、始まりのバラードあたりかな?
音程を自由自在に行ったり来たりしてそのとき感じるままの音楽を表現する望海さんの姿に、ワイルドホーン氏がだいきほのことを「singerではなくmusician」と評したことを思い出したのでした。

井上さん、海宝さんの回に歌われた曲については、まともな感想を書けるほど詳細が記憶に残っていないので、円盤が届いてからゆっくり噛みしめようと思っています。
ただ、ゲストお三方の歌声を聴いて改めて感じたのは、望海さんとんでもなく高い壁に挑んだんだなあということ。
ラミンと歌った闇広以外は、まだ0.5歳にもならない女優としての声で 国内外のミュージカル界のトップに立つお三方と対等に渡り合うチャレンジ。
それでも期待されるのは、20年近くかけて磨きあげた男役の歌声と同等のクオリティー
あまりにも苛酷でしたが、それを承知のうえでお願いした出演でしょうし、実際に望海さんは私の予想をはるかに上回るスピードでこの公演期間に進化してしまいました。
もちろんご本人が目指すレベルはまだまだこんなものじゃないでしょうから、次に舞台で歌声を聴ける日が楽しみでなりません。
しかも今度は役としての歌声であり、歌うのは超高難度のナンバーばかり!. 望海さんの魔女のとてつもないエネルギーに圧倒される予感しかしません。

そして、今日は真彩ちゃんにとって退団後初舞台となるドン・ジュアンの初日
望海さんもきっと観にいらっしゃるんだろうな、という期待をもちつつ、SPERO大楽の2日後に真彩ちゃんの第2章が本格的にスタートするという不思議なめぐり合わせに幸せなバトンパスを感じています。