ろっぴーのブログ

大好きな方々を愛でたい

「イザボー」感想

久々の望海さんオリジナル作品出演となったイザボー。
制作陣とキャストの熱量の高さを感じる公演で、
とても満足度の高い観劇体験でした。
皆さん最高!としか言えないので
お一人ずつについて書くのは諦めましたが、
各キャラクターを漫画原作ですか?ぐらい
キャラ立ちさせて魅力的に、
そして技術的にもストレスなく(私にとっては
お金を払って観劇する上でとても重要なポイントです)
舞台上で生き生きと魅せてくれたプリンシパルの皆さま。
時に歌い、時に踊り、あの複雑なセットを縦横無尽に駆け巡り、
熱いパフォーマンスで混沌の時代を体現してくれたアンサンブル、スウィングの皆さま。
あの密度の高い内容で長い公演時間、
舞台のクオリティーを高く保ってくれた
その他すべてのスタッフの皆さまに拍手を。

主に作品の外枠について感じたことをしたためる中で、
クレーム?批判?ととられかねない要素も多くなってしまいましたが…
BWやWEの名作と呼ばれる作品だって、
ワークショップから始まり、ブラッシュアップを重ねて
栄えあるトニー賞ローレンス・オリヴィエ賞にたどり着く。
この世界初演が、ゴールではなく
さらなる進化を見据えたスタートであることを願っていますし、
MOJOプロジェクトにはもっともっと多くの
素敵な作品を生み出してほしいという期待を込めての感想です。


今回の脚本で個人的に一番の欠陥だと感じるのは、
「なぜイザベルがイザボーと呼ばれるに至ったか」
が描かれていなかったことです。
歴史上、イザベルという名の王族はたくさんいるのに
イザボーといえば今作の主人公に限定される。
それはなぜなのか?
それこそが、タイトルがシンプルに「イザボー」
である理由にも帰着する物語の柱になったはず。

ドイツ語圏の名前であるエリーザベトが、
フランス語圏ではイザベルとなります。
ではイザボーは?というと、
イザベル(女性形)を男性形にした発音なのだそう。
つまり、彼女を悪女であると喧伝する風潮の中で
蔑称として生まれた呼び方が、歴史の中で定着したのです。
だから、同じイザベルという名は多く存在しても
「イザボー」で認識されるのは一人だけ。
のはずが、今回は
「エリーザベトがフランスに来たからイザボーと呼ばれている、
イザベルはシャルル6世だけの特別な呼び方」
としか読み取れない脚本になってしまっている。
彼女がイザボーと呼ばれるようになるのは、
「獣になる」と決めた後であるべきでした。
それでこそ、シャルル6世一人がイザベルと呼び続けることの
意味が際立ったのではないでしょうか。

そんな”陛下”シャルル6世こそが、
作中におけるイザボーの行動すべての基盤になっていると私は感じています。
彼の愛によってフランスの人間として生きることの支えを得た彼女は、
疾患によって王としての力を失った彼を
食い物にしようとする摂政たちに対し、
ただ一人彼の味方である自分が力を持てば
彼を守れるのだと目覚める。
王太子を擁する敵対する勢力が力を持てば
自分(と共にあるシャルル6世)に危険が迫るため、
王太子は非嫡出子であると宣言して
彼らに王位が渡らないようイングランドに与える…

すべては陛下のため。
複雑な権力争いの裏にあるものを
どシンプルに落とし込めば、そうなるのだと思います。
夫が国王であればこそ「フランスを守る」
という言葉も出るけれど、
陛下への思いという彼女の個人的な感情が原動力である以上、
国の動向はおまけに過ぎなかったのでしょう。
イザボー個人の目的で動いた結果、
彼女が統治者であるがゆえに国を揺り動かしてしまっただけ。
でも民からすれば、日和見主義の果てに国を売った最悪の王妃…
トロワ条約から間もなく陛下が世を去ったことで、
彼女はようやく公人に付きまとう重荷から解放され
ただのイザベルとして生きることができるようになったのだと、
夢枕に立った陛下との会話と
その後ラストまで彼女が登場しない演出から感じました。

…でもこうやって整理して自分なりに咀嚼できたのは、
複数回観劇したからなんですよね。
初見では特に2幕後半の怒涛の展開がなんのこっちゃで、
イザボーの物語であるはずなのに1本筋が通った感じがしなかった。
一つには、歌詞とセリフの問題があると思います。
特に歌詞が歴史的事実の説明だらけというのは、
聴覚からしか入ってこない大量の情報を
一度で咀嚼するのは無理ゲー、というのもありますが、
それらの出来事が登場人物にどのような影響をもたらし、
どんな感情を引き起こすのかわからないという問題が大きい。
日本人に馴染み深い時代でもないので、
なおさらそこはもっと精査してほしかったなーと。
あと、陛下とイザボーの心の結びつきを印象づける要素があまりにも少ない。
少女時代のイザベルとカトリーヌを同じキャストが演じることによる効果、
というのはもちろんわかるのだけど
それ以上にイザボーの行動の根っこであるはずの
陛下との関係を丁寧に描くことの方が重要では?と思うので
私は望海さんと理生さんに通しで演じてほしかったし、
シャルル6世が狂気に墜ちるまでの尺をもっととってほしかった。
そうすれば初見での腹落ち度はまるで違っただろうなと思います。
あと少女時代のイザベル演出もいまいちピンときてなくて、
「もう私がいなくても大丈夫だね」って言ったはずなのに
2幕でまた出てきたときには正直はあ?となりました。
(言うまでもなく大森さんの仕事は素晴らしいので、
キャストどうこうの問題じゃないよ)

でも一方で、彼女が陛下に対して抱いていたものが
愛だけとも思いません。
狂気に堕ちた彼は、「小さな王妃様」とは共寝するのに自分のことは覚えていない。
そして、錯乱の中で繰り返される一方的な暴力…
憎しみを全くおぼえなかったわけがないと思います。
「硝子の心」では、男女1人ずつで組んだアンサンブルさんたちが二人の周りで踊ります。
振付は、陛下がイザベルにしているのと同じようなこと。
でも、その中には女性が男性を引き倒したり蹴りつけたりしている組がある。
イザベルは狂気の波を耐え忍びながら、
愛憎渦巻く心の中では何度もこうやって陛下への怒りをぶつけたのでしょう。
獣になることを決めた彼女が歌う
「私を不幸たらしめるものへの復讐」。
女であるだけで同じ人間扱いをしない男たち、
王族への不満だらけの民衆だけでなく、
狂気王も彼女を不幸たらしめる存在。
シャルル6世だけを愛しながら多くの男たちに身を売ったこと、
フランスという国を愛した彼にペンをとらせてトロワ条約に調印し、
敵国に王位をくれてやったことこそ
彼女の夫に対する復讐だったように感じられてなりません。

そしてもう一人、この作品を観てイザボーの生き方を考える中で
強烈に印象に残っている人物がヨランド・ダラゴンです。
王が主体的に権力を行使することができない状況では、
王妃といえども名ばかりの脆い存在になりかねない。
だから男たちが持つ力(武力)による庇護を求めて、
イザボーは王妃の肩書が持つ力と自らの体を与えた。
1幕で美しく着飾り、子を産むという「女の役割」
だけを強要するフィリップとジャンに反発し、
「女として生まれてきたこと
それだけが私の証しではない」と言った彼女が、
結局は女であることを利用するしかなかった悲哀を感じずにはいられません…

手当たり次第に周りの有力な男たちからメリットを得ようと取引したことで
汚名を被ったイザボーと対照的なのが、ヨランドの存在。
持参金についてのジャンとの丁々発止のやり取りが象徴するように、
肝が据わっているうえに頭の回転が速く弁も立つ女性です。
イザボーは彼女を小賢しいと評するけれど、
ヨランドが持ち、イザボーが持っていなかったものが二人の行く末を分けました。
ヨランドは表舞台の影から権力の移り変わりを的確に見極め、
勝ち馬に乗り換え続けて勝利王の母となり、
イザボーは守るべき夫を失い、
子どもたちが自らの手を離れたタイミングで表舞台から降りた。

後の時代の人間から見れば、
ヨランドは聡明な女性、イザボーは愚かな敗者に映ります。
でも、私はこの作品を観て、男たちの中を上手くすり抜ける生き方ではなく
愚直な体当たりの勝負しかできなかったイザボーを愛おしく感じました。
シャルル6世の言葉どおり、彼女は何があろうと生き抜いた。
その姿に、大好きなドラマ「アンナチュラル」で主人公が母からかけられる
「生きてる限り負けない」というセリフを思い出しました。
御託はいいわ!と誇り高く突き放されてしまうのだろうけど、
それでも彼女の人生を目撃した観衆の一人として、言いたくなります。
あなたは勝ったとはいえないかもしれない、でも決して負けもしなかった。
天晴れ、イザボー!と。